眠たくない
長いこと不眠症を患っているせいか、夜中に熱中して活動することに強い抵抗感がある。
自分が不眠症であると自覚するまでは、僕にとって夜は様々に全能感をもたらしてくれる存在であった。
持てる能力のすべてにデバフがかかる、みたいな。
「夜」という環境ひとつで、自分の「できること」が数倍に膨れ上がるような感覚を抱いていた。
昼間にだらだらと働いて、夜に本当のスイッチが入って、明け方気絶するように眠りに落ちる。10代後半から20代半ばまで、僕はそんな毎日を送っていた。
もちろん、しわ寄せは昼間の自分が引き受けるしかない。
明け方気絶するように眠るといっても、数時間後には起きて仕事に行かねばならないから、結果ほとんど眠れてなんかいない。
眠たいけれど眠れない。頭は痛いし、冷や汗は出るし、心臓の音がやけに早い。
僕はすっかり眠ることが苦手になってしまっていた。
心療内科で睡眠薬を処方されるようになってから、睡眠に対する苦手意識はさらに強くなった。
自然に眠りに就くとはどんな状態であったか、もうそんなのは昔のことすぎて思い出せない。
それからずっと、入眠時の睡眠薬を心の支えとしている。
大好きだった夜との向き合い方が変わってしまったのもその頃だ。
夜は、静かで孤独で、突き詰めて物事を考えるにはもっとも適した時間帯だと思う。
翻って、昼間の喧騒の中では、僕はもっとも無能な人間になるように思う。
もとより無能なのにもかかわらず、余計に、という意味で。
そうして、「自然な眠り」に対しては、僕は憧れのような気持ちを抱くようになっていった。
僕は、人が眠りに落ちる瞬間を見るのが好きだ。
旅行なんかで誰かの眠りに居合わせたとき、意識が途切れる瞬間を目の当たりにすると、僕はそこに、神秘性を感じる。本来、生き物ならば全員が持っているはずの、眠りという能力の発現に、なにか崇高なものを見たような気になる。
さっきまで目を開けていた人が、数分後に寝息を立て始める。その一部始終に居合わせると、羨ましい気持ちになる。同時に、取り残されてじれったいような気持ちにもなる。
できることならば、僕が先に寝たい。
寝入ることに困難もせず、途中で起きることもなく、夜から朝まできっちりと、意識を手放してしまいたい。
たまに「どこでもいつでも眠れる」と自信げに語る人に会うと、心底羨ましく思う。
もしも、その能力が確実に手に入るセミナーがあるのなら、そこそこの金額でも期間でも惜しみなく申し込むはずだ。
「眠らなければならない」という呪いにも似た思いのもと、夜は、全能の空間から、苦痛の牢獄へと姿を変えた。
根っこにあるのは僕自身の意識の変容なのだけれど、今さら「眠らなくても生きていける」とも思えないし、睡眠薬を手放すのは恐ろしい。
今、病気をして少し仕事を休ませてもらっているのだが、ちょっとした発見があった。
僕は睡眠薬を常用しても、それでもうまく眠れずに、常々睡眠不足の状態であった。
もともと趣味の少ないほうなので、休みとなっても、どう休んでいいかわからない。
はじめのうちは、サブスクでドラマを見たりしていたのだが、早々にやることがなくなった。
暇を持て余して、狭い1Kアパートのキッチンと居室をうろうろしていたとき、時間に復讐をしてやろうと思った。
仕事もない、予定もない、新型コロナはあるし、人と会う約束もなかなかできない。
これは、休んでみてはじめてわかったちょっとした発見だったのが、変則的な睡眠周期を取ると、僕でも8時間以上眠れることがわかった。
まず、夜は疲れたら寝る。だいたい2時から3時くらいに体が疲れて頭がもやもやしてくるので、このときに睡眠薬を飲んで横になる。長年愛用している睡眠薬は既に体に耐性ができているらしく、6時には目が覚める。ここでちゃちゃっと朝食を食べる。おにぎりとか、パンとか、数秒で口に詰め込めるものがいい。ここで「朝食後服用」する薬を飲んでしまう(毎日だいたい同じ時間に飲めとのことなので)。そして、ベッドに戻ってもう一度眠る。すぐには寝付けないのだが、ぐずぐずしているといつの間にか眠れている。今まで試したことがなかったのでわからなかったのだが、まだこの時間は睡眠薬が効いていのだろうと思う。そうすると、次に目が覚めるのはだいたい昼の10時〜11時くらいだ。
朝には出かけなければならない人の生活ぶりと比べたら、かなり変則的なのだろうと思うのだが、この時間帯に寝るようになって、日中の眠気がまったくなくなった。
ただ、日中の眠気がなくなったぶん、「暇だな」と思う気持ちも強くなった。
睡眠に満足するなんて、ここ十数年なかったことなので、この感覚は果てしなく嬉しい。
食べ物の好みが人それぞれであるように、睡眠時間も人それぞれに合う合わないがあるというのも、なるほどわかる話だ。
なんて、本当は何も気にしないで、毎日同じ時間に眠くなって、毎日同じ時間に起きて、睡眠時間が時間帯がなんて気にしないで日々を送れるようになったら一番いいのだけれど。
そのうえで、いつぞやの夜に感じる情熱や意欲を取り戻すことができたなら、もっといい。
眠りについては、まだまだ試行錯誤が必要だと思う。
眠たくない
長いこと不眠症を患っているせいか、夜中に熱中して活動することに強い抵抗感がある。
自分が不眠症であると自覚するまでは、僕にとって夜は様々に全能感をもたらしてくれる存在であった。
持てる能力のすべてにデバフがかかる、みたいな。
「夜」という環境ひとつで、自分の「できること」が数倍に膨れ上がるような感覚を抱いていた。
昼間にだらだらと働いて、夜に本当のスイッチが入って、明け方気絶するように眠りに落ちる。10代後半から20代半ばまで、僕はそんな毎日を送っていた。
もちろん、しわ寄せは昼間の自分が引き受けるしかない。
明け方気絶するように眠るといっても、数時間後には起きて仕事に行かねばならないから、結果ほとんど眠れてなんかいない。
眠たいけれど眠れない。頭は痛いし、冷や汗は出るし、心臓の音がやけに早い。
僕はすっかり眠ることが苦手になってしまっていた。
心療内科で睡眠薬を処方されるようになってから、睡眠に対する苦手意識はさらに強くなった。
自然に眠りに就くとはどんな状態であったか、もうそんなのは昔のことすぎて思い出せない。
それからずっと、入眠時の睡眠薬を心の支えとしている。
大好きだった夜との向き合い方が変わってしまったのもその頃だ。
夜は、静かで孤独で、突き詰めて物事を考えるにはもっとも適した時間帯だと思う。
翻って、昼間の喧騒の中では、僕はもっとも無能な人間になるように思う。
もとより無能なのにもかかわらず、余計に、という意味で。
そうして、「自然な眠り」に対しては、僕は憧れのような気持ちを抱くようになっていった。
僕は、人が眠りに落ちる瞬間を見るのが好きだ。
旅行なんかで誰かの眠りに居合わせたとき、意識が途切れる瞬間を目の当たりにすると、僕はそこに、神秘性を感じる。本来、生き物ならば全員が持っているはずの、眠りという能力の発現に、なにか崇高なものを見たような気になる。
さっきまで目を開けていた人が、数分後に寝息を立て始める。その一部始終に居合わせると、羨ましい気持ちになる。同時に、取り残されてじれったいような気持ちにもなる。
できることならば、僕が先に寝たい。
寝入ることに困難もせず、途中で起きることもなく、夜から朝まできっちりと、意識を手放してしまいたい。
たまに「どこでもいつでも眠れる」と自信げに語る人に会うと、心底羨ましく思う。
もしも、その能力が確実に手に入るセミナーがあるのなら、そこそこの金額でも期間でも惜しみなく申し込むはずだ。
「眠らなければならない」という呪いにも似た思いのもと、夜は、全能の空間から、苦痛の牢獄へと姿を変えた。
根っこにあるのは僕自身の意識の変容なのだけれど、今さら「眠らなくても生きていける」とも思えないし、睡眠薬を手放すのは恐ろしい。
今、病気をして少し仕事を休ませてもらっているのだが、ちょっとした発見があった。
僕は睡眠薬を常用しても、それでもうまく眠れずに、常々睡眠不足の状態であった。
もともと趣味の少ないほうなので、休みとなっても、どう休んでいいかわからない。
はじめのうちは、サブスクでドラマを見たりしていたのだが、早々にやることがなくなった。
暇を持て余して、狭い1Kアパートのキッチンと居室をうろうろしていたとき、時間に復讐をしてやろうと思った。
仕事もない、予定もない、新型コロナはあるし、人と会う約束もなかなかできない。
これは、休んでみてはじめてわかったちょっとした発見だったのが、変則的な睡眠周期を取ると、僕でも8時間以上眠れることがわかった。
まず、夜は疲れたら寝る。だいたい2時から3時くらいに体が疲れて頭がもやもやしてくるので、このときに睡眠薬を飲んで横になる。長年愛用している睡眠薬は既に体に耐性ができているらしく、6時には目が覚める。ここでちゃちゃっと朝食を食べる。おにぎりとか、パンとか、数秒で口に詰め込めるものがいい。ここで「朝食後服用」する薬を飲んでしまう(毎日だいたい同じ時間に飲めとのことなので)。そして、ベッドに戻ってもう一度眠る。すぐには寝付けないのだが、ぐずぐずしているといつの間にか眠れている。今まで試したことがなかったのでわからなかったのだが、まだこの時間は睡眠薬が効いていのだろうと思う。そうすると、次に目が覚めるのはだいたい昼の10時〜11時くらいだ。
朝には出かけなければならない人の生活ぶりと比べたら、かなり変則的なのだろうと思うのだが、この時間帯に寝るようになって、日中の眠気がまったくなくなった。
ただ、日中の眠気がなくなったぶん、「暇だな」と思う気持ちも強くなった。
睡眠に満足するなんて、ここ十数年なかったことなので、この感覚は果てしなく嬉しい。
食べ物の好みが人それぞれであるように、睡眠時間も人それぞれに合う合わないがあるというのも、なるほどわかる話だ。
なんて、本当は何も気にしないで、毎日同じ時間に眠くなって、毎日同じ時間に起きて、睡眠時間が時間帯がなんて気にしないで日々を送れるようになったら一番いいのだけれど。
そのうえで、いつぞやの夜に感じる情熱や意欲を取り戻すことができたなら、もっといい。
眠りについては、まだまだ試行錯誤が必要だと思う。
雑記
とかく格式ばった捉え方ばかりをしてしまうほうなのだと思う。
「テーマ」とか「構成」とか、出来栄えばかりを気にして、「とりあえずやってみる」というのがなかなかできない。
恥をかくのが怖くてパーティーに参加できない人のようだ。
さっきも、「ブログを書くにはどうしたらいいのだろう」と考えて、検索サイトでとりあえず「ブログ テーマ 毎日」なんてのを検索していた。
小学生の頃、長い休みに入る前には、計画表というのを作らされたことを覚えているだろうか。
僕はあれが大得意だった。
なぜなら、「そもそもうまくいかない」という前提のもと、「だいたいこんな感じ〜」とマス目を埋める作業としか考えていなかったからだ。できるできないは最初から考えていない。スタートからラストまでの日数を見渡して、今決まっている予定を入れて、あとは課題をバランスよく等間隔で配置していくだけだ。
これが苦手だったという話を聞くたびに、その人はとっても真面目な子だったんだろうなと思う。
いざ長期休暇が始まったとしても、仕事のように進捗を確認してくれるまめな人はいないので、結局新学期開始の三日前くらいに、何ができていて何ができていないのか総ざらいをする羽目になる。たいていは何もできていない。どの年度どの休みもそうだったのだから、確信犯であり常習犯である。自分の小ズルさに溺れたばかりに、つじつま合わせに奔走しなければならなかったのだ。
尻に火がつかないと始められないという人は多い。僕も、なにごとにも締切は必要だと思う。でないと、いつまで経ってもやり始められる気がしない。
ブログにしても「毎日書くのだ!」と意気込んでみたところで、続いて3日、続かなくて今日限りである。
一年後くらいに、「そういえばあの頃そんなことをしていたな」と思い出して、また、続いて3日、続かなくて今日限り、書いて終わり、そんなことの繰り返しである。
「さあ始めるぞ!」と思うほどに続かない。
「どうせ続かない……」と思うほどにも続かない。
結局続かない。
その原因を探しているうちはまだよくて、ほとんどの場合、そんなことを考えていたことすら早々に忘れてしまう。
今回についても、明日また同じように文章を書いていたら自分で自分に拍手を贈りたいとすら思う。
そんなとき、書いている時間よりも、書き始めるまでに悩んだ時間のほうが圧倒的に長いのもまた趣深い。
この文章の出来栄えなんて誰一人として気にしていないのに。
「どうせやるならうまくやりたい」という心理が、ものごを始めるのをどんどん億劫にしてしまうのだと思う。
だから始めるまでに時間がかかるし、始めてからも続かない。
飽き性による負のスパイラルは恐ろしい。
長さ、内容はどうあれ、書きたいときに書くくらいでちょうどいいと思う。
そのくらい気楽にやっていけば、そのうち慣れで毎日書くようになるんじゃないかな。
暇すぎて
今夜、暇で暇で仕方なくて、何の気なしに昔使っていたブログアカウントにログインをしてみた。
「書く筋力」というのも、鍛えていないと衰えるようで、なにか書こうと思っても久しぶりすぎて頭がうまく働かない。
Mixiが全盛の頃、毎日アホみたいに長文の日記を書いていたことを思い出して、20代って凄かったんだなとも思う。あの頃の情熱は今どこへ行ってしまったのだろう。
インプットとアウトプットで考えると、僕の場合、現在はまったくアウトプットをしていない状態だ。
インプットですら、まったりとしたタイBLを配信で見るくらいで、積極的に自分から情報を取りにいくような行動はできていない。
生活のすべてが停滞している。
それというのも、僕は今うつで二度目の休職のただ中にいる。
担当の医者からは「今は無理をせずとにかく休め」と言われている。
「時間は気にせず眠れるときにたっぷり眠れ」という指示が出たのは、目から鱗だった。
今回のうつのトリガーは不眠症の悪化だった。
不眠症の改善には、夜寝て、朝起きて、適度に運動をして、きちんと食事を摂って、生活のリズムを整えていきましょうとどのページにも書いてあるではないか。
曰く、心身がとてつもなくくたびれている状態なので、兎にも角にも眠れるときにがつんと眠って、まとまった睡眠時間を確保してやるほうが、優先順位が高いらしい。
そんな医師の指導があったうえでのゴミクズのような生活である。
深夜3時に睡眠薬を飲んで寝て、7時ころ一度起きてもさもさとなにかを食って、もう一度床に就き、昼過ぎにまた起きる。
起きたら配信サブスクでだらだらとドラマを見て、また夜が来るのを待つ。
最近の僕の生活はだいたいこんな感じ。
しかも、一週間ほど前に新型コロナウイルスの濃厚接触者認定をされ、しっかり38度の熱まで出したので、以降10日間の自宅隔離は必然であった。
そもそもがうつ休職で激烈に休んでいたのである。
それに加えて、熱・頭痛・倦怠感・喉の痛み・咳で身体的にもダウン。まあまあ最悪である。
発熱してからもうすぐ一週間、体はだいぶ楽になってきた。
もともと時期が時期だけに積極的に外出をしていたわけではないのだが、こうなってしまったからには、きっちり自分を自室に押し留めておかなくてはならない。
出かけられない、人に会えない、ご飯味気ない、やることない、そんな日々が続いてしまって、なんだかもう生きているのがつらくなってしまった。
たまに届く友人からのLINEがとてつもなくありがたく感じる。
世間と自分をギリギリのところで繋ぎ止めてくれているのが、一日数通のLINEのやりとり、そんな感じ。
書いていたらまた寂しくなってきてしまった。
同時にちょっと活力も湧いてきたような気がする。
ゴミクズのような生活をしてはいるが、まだ死ぬほどではないなと思う。
死ななくてもいいや。
こんなんで死ぬとか意味わかんねえもん。
暇で暇で仕方なくて、ドラマも見飽きて、じゃあなにするっていって、日記書いてる。
本当つまらない思考回路だなと思う。
けど、まあいいか、時間潰せたし。
雑記
文章を書いていると、自分が今までよりも少しだけ高尚な存在になれたような気がするから不思議だ。
僕はあくまでも心の内側に沈み込んでいきたい。
世の中は、騒がしいけれど、僕に直接的に影響は与えない。
僕は音楽も映像も画像も要らない。
テキストだけで十分で、テキストだけで十二分に溺れていられる。
この十本の指で叩く文字こそが、僕の世界であっていい。
当たり前のことだけれど、ここではなにもかもがどこまでも自由だ。
貧富も生死も宇宙も概念も想像力の及ぶ範疇であれば、現実とすることができる。
純粋で残酷でわかりやすいやり方だ。
テキストに夢中になれたなら、僕はもう無敵なんだろうと思う。
文字が打てるノートパソコンさえあれば僕は無敵でいられる。
課金要素はないし、どんなに文字を書き散らかしたところで誰かの迷惑になることもない。
僕はただただ、この場所で、醜いものに美しさを求め、美しいもに嘘を見咎める行為に没頭していればいい。
ストレス発散の方法は人それぞれにあると思うが、僕のストレスの発散の方法はこうだ。
少し、宗教染みている。
心情の吐露、とまではいかないが、思ったことをつらつらとテキストに焼き直しているだけで、心がどんどん澄んでいくのがわかる。
気持ちをテキストにする作業は気持ちがいい。
意味なんてなくてよくて、道理なんて通ってなくてもよくて、日々書くことはあくまでも書き散らしくらいでちょうどいい。
恰好を付ける必要もない。僕はただ、キーを叩きたいだけなんだ。
義務のように毎日書く必要もない。
記録と考えるのもよくない。
ライフログ、死ね。
書きたいときに書けたらいい。
所詮ストレス発散をするためだけの暇つぶしなのだ。
冒頭で、「高尚」という言葉を用いたが、僕は高尚だなんてちゃんちゃらおかしい。
趣味のハードルは地面すれすれ低ければ低いほどいい。
一気に頑張ってしまうと息切れする。
いや、頑張らないほうがいい。
つらいことをする必要はない。
楽しいから続けられるのだ。
文字数も気にしない。
ただただ書く、つらつらと書く。
誰のためでもなく、自分のためでもなく、キーを叩くのが楽しいから。
そうでなければ続くものも続かない。
それでいい。
それでいいということを矜持としよう。
祈り
さっき思ったんだけど、僕はどうやら文章を書くのが好きみたいだ。
このところ、僕は、何にも夢中になれないことに不安を感じていた。
SNSで見る友人連中(実際に相互で知っているとは限らないのだけれど)は、仕事だったり、家事だったり、趣味だったり、コミュニケーションだったりにいつも夢中で、「楽しい今」を常に発信している。
僕は彼らのそれらを見るにつけ、自分にはどうしてこうも夢中になれるものがないのだろうとため息を重ねていた。
過去にはあった。
月並みだが、楽器を演奏したり、していた。
しかし、いつしかそれも億劫になってしまっていた。
「こんなことをしてなんになるのだろうか」そう考えてしまったたら、もう駄目だった。
自己肯定感というものが低いんだと思う。
なかなか、自分を認めて上げることができないのだ。
自分程度の人間はごろごろいるし、プロになってお金を稼ぐのはずっと大変だろうし、自分になんてできるわけないし、と後ろ向きな発想ばかりが僕の襟首を掴んで、楽しむことをさせてくれないのだ。
今となって思えば、ただの趣味なのだから、いちいちそんな小難しいことを考えなくてもよかったのに、と思えるのだが。
もしかしたら、そんなふうな、後ろ向きな自意識に足止めを食らっていなければ、練習を続けていれば、もっとなにか違う楽しみができていたかもしれないと、今になって思う。
僕は飽き性だ。
何かを始めてみては、自分がこんなことを続けていても、なんの役にも立たないし、きっと誰も喜ばない、とか、そんなことばかり考えて、始めたばかりの趣味からフェードアウトしていってしまう。
飽き性であり、こらえ性がないのだとも思う。
最近では、スマートフォンが手放せず、ネットニュースやSNSばかりを見ている。
自分にとって、今すぐに知らなければならないような情報なんて、一つもありはしないのに。
何をしていても、スマートフォンが手放せないのだ。
だから、思考がまとまらない。
何も、手につかない。
やりたいことはいくつかあるのだけれど、どれも始めるまでに至らない。
始めたところで、続けることがかなわない。
でも、今日久しぶりにノートパソコンを膝の上に乗せて、昔ながらのキーをタイプして、心が空っぽになっていくのを感じた。
僕にとって、タイピングをして頭の中にあるモヤモヤを、掻き出すことは、心を整えるひとつの手段となりえるのかもしれない。
正直に言って、こんなに落ち着いている時間は久しぶりだ。
いつもは、時間が経つのがとても遅く感じて、つらいのだ。
夕方から夜にかけて、時間が過ぎるのがこんなにゆっくりに感じたことは、30年以上生きてきてはじめてかもしれない。
これほどまでに集中できることが身の回りにないことも、はじめてかもしれない。
在宅勤務で仕事も手に付かない。
小説を読んでいても、今どれだけ読んだか、何分読んでいるかが気になってしまう。
テレビの内容も頭に入ってこない。
音楽も聴いていられない。
ゲームも始めらない。
おそらく、軽いうつが始まっているんだと思う。
それでもできることが見つけれた。
それは、単純に喜ばしいことだ。
リハビリでいい。
ただただ文章を重ねていくことで、僕の心が軽くなって、誰か、何かに八つ当たりしなくて済むのであれば、これほど素晴らしいツールはない。
続くかどうかはわからないが、僕はこの行為を、神との対話のように考えようと思う。
誰にも届くことのない、孤独な祈りだ。
これが、僕の気持ちを落ち着かせるための、心に凪を得るための、雑多な祈りの所作であればいいと思う。
僕にとって、雑記が祈りの道具たるように、日々のため息に似せて、ぼんやりと思いを刻んでいきたい。
タイピング
子どもの頃、パソコンのキーボードを叩くのが好きだった。
最初はチャットだったように思う。
まだ、ISDNの時代で、通信料が安くなる深夜を狙って、どこの誰ともも知らない相手と、掲示板でチャットをしていた。
そのときのハンドルネームはなんだったか、思い出せないな。
そうしてキーボードで文字を打つことには慣れた。
子どもにしては、PCで文字を打つのは早いほうだったように思う。
それから、PCで文章を書くことに慣れて、何かを書くとか、思いを伝えるとか、そういうことではなくて、キーボードを叩くことを好きになった。
そんな流れで、「小説を書いてみよう!」なんてことも夢想したのだが、思いついたアイデアが形になることはなかったし、書き始めた小説が完成することもなかった。
そういうこらえ性についてはからっきしだったのだ。
文章を考えるとか、お話を考えるとか、思いを伝えるとか、そういうことではなくて、僕にとってキーボードを叩くことは、純粋にキーボードを叩くこと以外の何物でもなかったように思う。
何かを表現することを目的とした、手段としてのタイピングではなく、ただタイピングをすることのみが目的だったように思う。
つまりは、手段の目的化だ。
たとえば、誰かに思いを伝えることを目的に歌を歌う人と、歌を歌うこと自体が目的になっている人でいったら、僕のタイピングは後者であるということになる。
なにかをふと思いついて文字を打つことは過去にはたくさんあったのだが、ここ10年は離れてしまっていた。
自分と向き合うことを恐れいたのかもしれない。
自分の中に潜ることを忌避していたのかもしれない。
たぶんだけどね、自分が全然大したやつじゃないということを認めるのが怖かったんだと思う。
その10年、僕は20代で、ずっと恋人がいたし、友達も多くて、いつも派手で騒がしくて楽しかったから、自分が何者で何をなそうとしているのかなんて考える必要がなかったんだと思う。
文字をよく書いたのは、高校生から大学生にかけてだった。
それは、若者にとってありがちな、自分探しの行程だったのかもしれない。
今となっては黒歴史になってしまうのだろうが、そのときは日常の細やかな心の動きにいちいち感動して、それをどうにか文章で残すことができないかと毎回苦心していた。
それをありのままに表現して誰かの心に届けられるような芸術的文才は、もちろん僕には備わっていなかったわけなのだけれど。
それはそれは楽しくて、僕は夢中になった。
当時はミクシィが全盛で、二日にいっぺんは長い日記を書いていた。
これだけでももうやばいにおいしかしない。
自分がいったいどんなことを書いていたのかは、幸いにも忘れてしまっているのだが、忘れたままにしておきたい過去だったかもしれない。
新型コロナウイルスが流行してもう一年以上経つ。
僕は、娯楽も仕事も限界だ。
見たい動画もたいがい見たし、仕事は在宅勤務中心でとのかく退屈でやる気が出ない。
そんなところで、今まで自分が楽しいなと感じたことってなんだったかなと思いつつ、ノートパソコンで思ったことをつらつらと書くのが楽しかったなと思った。
そしして、ここにまたログインしてみた。
またすぐやめてしまうかもしれないけれど、今この文章を叩いている瞬間は、結構楽しい。
スマートフォンも気にならない。
無音でも気にならない。
そこそこ、夢中になれていて、少し驚いている。
こんなに夢中になれていることなんて、最近ずっとなかった。
筋肉は使わないと衰えるという。
仕事で人の文章の添削は何回かしていたが、自分で思ったことを書くということはなかった。僕が文章を書くという筋肉もかなり弱体化しているんだろう。
これからなにかを書こうと思うにしても、リハビリが必要なようにも思う。
とりあえず、文字を打つのが楽しいということは、少し思い出した。
青春を思い出すかのごとく、気の向くままに、書くことが続けられたらいいと思う。