遠浅の海、羊の群れ。

「やってられるか」と叫びながらやっている。

”士”への憧れ

資格もなく、経験もなく、終わりの見えない転職活動にうんざりしつつ、「ひと月を、またはふた月を過ごせるならばなんでもいいや」と決めた仕事は事務職だった。

楽そうだからと総務部を希望していたのだが、僕が配属されたのは人事部だった。会社の中で人事部が何をする部署なのかは採用されてから調べた。こんないい加減な奴さえも欲しがるのだから、うちの会社はよほど人手不足だったの違いない。

そんな出会いから丸六年。時が経つのは早いもので、気付けば僕も人事6年生ということだ。4月を年度のはじめと数えるなら、次の四月から中学生に上がる。そんな感じか。

 

六年も同じ部署で似たような仕事をしていると、さすがの僕でも人事とはなんぞやという部分が肌身に触れてわかるようになる。健康診断、給与計算、雇用保険労災保険、健康保険、通勤費の計算、税、年末調整、就業規則、給与規定、そのほか各種規程の改定、残業代の計算、勤怠管理、評価制度、衛生委員会、産業医契約、出向契約、ざっと数えてもまだまだあるのだが、キリがないのでこのへんにして、大きく言って社員のことを全部やるのが人事部だった。

会社と社員の間に立って、会社の都合を考えて、社員の権利を守って、どちらにもいい顔をしつつどちらにも厳しい顔をしつつ、最終的には厚労省の顔色を伺うような、そんな仕事だなあと。

 

6年やってわかりかけなのだから相当に奥が深いのだろうことはわかった。

 

そうして、今、6年目が終わる3月。

うちの会社は3年周期で大きな部門異動がある。

中途入社で入ったものの、僕もまだ30代で、どこに異動させられても不思議ではない。大きな異動の二回目が今やってきたのだが、別の部署への異動辞令は今のところまだない。

 

僕にとっても、会社にとっても、僕が人事部員である必然性はないと思っていたので、正直覚悟はしていた。しかし、蓋を開けてみれば、他の部署へやらなければならない必然性もなかったということだ。

 

あと半月もすれば、僕の人事部員7年目が始まる。

 

僕の所属する部署、つまり、人事部には社労士を目指している社員が二人いる。少し前まで三人いたのだが、旧態依然としたやり方に嫌気が指したのか、三人のうち一人は先月を目処に人事の外注をする会社へ転職していった。

上司である課長も何年か社労士試験に挑戦していたそうだ。僕を採用した当時の直々の上司は聴覚障がい者だったのだが、自分の時代には聴覚障がい者は社労士試験を受けることができなかったので、なりたかったのになれなかったと言っていた。その人がやめたあと、一般職から主任、係長と役職を進めたので、その昔社労士試験が聴覚障がい者に門戸が開かれていなかったとしても、今となってはいいわけのようにしか思えなくなった。と、いうのも、四十代でも五十代でも社労士の合格実績はあるからだ。人事の仕事を十年以上やり続けて、受験制度が変わったときに、あの人はチャレンジをしなかったわけで、ならばあの人にとっては、合格の難易度と必要な勉強時間と、資格を取ってからの見返りが比例しなかったのだろうと思う。

 

そうして我が部に社労士を目指す人事部員は残り二人となった。二人とも、予備校に通い、日夜真面目に勉強している。

一人は二年目、もう一人は、さて何年目の挑戦であっただろうか。ずっと受けている人という印象が強い。

それもそのはず、さすが「士業」といったところで、社労士の合格率は低いときで2パーセント、多いときでも10パーセント、つまり1割である。とてつもなく易しい年に受験したとしても十人に一人しか合格しない、極めて狭き門である。だからこそ、「ずっと受けている人」がイコール「落ち続けている人」とは、どうしても思えないのである。どちらかというと「諦めていない人」であると、エールの意を込めて呼んであげたいと思う。

 

士業といえば弁護士だが、あれはたしか法科大学院の履修が必要だったはずだ。調べが甘いのでこのふたつの士業を比べてどうこう言うつもりはないのだが、弁護士に比べればいくぶんか易しいはずだ。

必要な単位数を取得していれば大学在学中も受験することができる。だから、合格者比率の最低年齢は「十代」である。

合格者比率をもう少し見てみると、三十代、四十代が多い。この人たちは、学生ではなく、社会人として働きながら受験し、合格し、社労士資格を獲得した人たちだ。ウェブの記事の浅い知識で申し訳ないのだが、どちらかというと、そういうふうに受験している人のほうがマジョリティーらしい。

 

合格後は二年人事関連の実地講習を行ったあと、会社に勤務しながら社労士業を営む勤務社労士か、開業をしていろいろな会社の手助けをしていくそうだ。

で、この実地講習とやらの免除条件に、人事部での勤務経験が入る。たとえば、先にあげた雇用保険の手続きとか、そんなのをしたことがあるか、というのが免除の条件に入ってくるのだ。気になって少し見てみたのだが、僕が社労士資格を取った場合、この二年の実地講習は確実に免除される。一応四年生大学を卒業しているので、まあ、普通に受験もできる。

 

ちなみに、ちなみにだが、社労士試験は毎年8月に行われる。ノータリンの僕が奮起するには些か、いや、あまりにも遅すぎる。それでも、それでもだ。とりあえず「はじめの一歩」なる参考書を買ってみた。

 

少し面倒で、答えの出ないことを言う。

僕の人生は退屈だ。

特に、仕事が終わってから寝るまでと、土日の暇さ加減がひどい。

なにもやることがなに。何にも熱中できない。

本を読むか、映画を観るか、酒を飲むか、それくらいしか選択しがない。

正直、こんなのがこの先ずっと、死ぬまで続くのならば、今死んでしまっても大きな差はないのではないかとすら思う。

僕の人生は言ってみれば、お金と時間の無駄遣いだ。とかく、「情熱」というものに縁遠い。まったくもってため息が出てしまう。つまらない、これほどまでにつまらないことが他にあるのだろうかと思えるほどにつまらない。

駅前の居酒屋の前に酔ってたむろして騒いでいる大学生連中を観るにつけ、生命を謳歌しているなあとうんざりとうらやんでしまうのだ。

僕の生命があまりにも輝かないので、僕は人生がつらいのだ。

何かに夢中になりたいけれど、その何かが見つからない。

こんなことをずっと思いながら、おじいになって死んでいくなんて嫌すぎる。失敗してもいい。僕にだって「夢中になる権利」くらいあるはずである。

 

そこで、「社労士」である。

なんかかっこいいじゃないか。

なんだかよくわからないうちに人事部に配属されたが、やってみるとそこそこ楽しい仕事だったので、社労士を目指してみようと思った。ストーリーとして違和感ないじゃないか。

いやいや、そうではなくて。

夢中になれるものを探して、でも、それはきっとなんでもいいわけでもなくて。自分がすでに頑張っているもので、さらに頑張って、頑張って頑張って、頑張らないとやった甲斐を得られないような高い壁で、まあ、現段階ではギリギリでも越えられるような低い壁ではないのだけれども。

 

「はじめの一歩」に掲載されていた内容は、ごく簡素なものだった。人事を六年かじっただけの僕でも、それなりに理解できる、知っているものばかりだった。

頁をめくるたびに、知らなくて、悔しくて、調べまくったあの頃の僕とまた出会えるようで、少し楽しくなった。

 

挑戦するのはいい。目指しているところはわかりやすいほうがいい。ほしいものは、名前がついているほうがいい。

 

社労士というのはものすごく頭の切れる人で、ものすごく偉い人だと思っていたのだが、資格試験だけならば大体の人には、(つまり僕にも)門戸が開かれているということがわかった。

 

もう少し早くやる気になっていたらなと、早くもギブアップしてしまいそうなのだが、とにかく、決戦は8月である。

 

今の会社に入って「突然辞めない」だけを目標にサラリーマン生活を送ってきたのだが、自分にとって有意義な時間の潰し方がやっと見つかったような気がする。

 

公言してはいないのだが、こうして、我が人事部に社労士を目指す社員が三人になったわけだ。

もし、問い詰められたら「記念受験で」なんて情けないことを口走ってしまいそうで怖いのだが、とにかく一年目は独学でやってみようと思う。

 

もし、会場で同僚にばったり出くわしてしまったら、試験監督のアルバイトをしているとでも言って誤魔化そう。

 

何より、平坦ではあるが、終業後と休日の予定ができたことが、今はなによりも嬉しいのである。

 

追加報告はないかもしれないが、とりあえず、ひさかたぶりの「勉強」に夢中になってみたいと思う。

 

ボヘミアンラプソディーを観た。

朝、彼女が出ていくのにまるで気が付かなかった。

一度9時くらいに起きたはずなのに、眠くて眠くて、なんでこなんなに眠いのかと思うほど眠くて11時まで寝ていた。

10時40分のアラームは何回かスヌーズしたことになる。

今日は映画を見る予定だったのだ。

昨日の深夜、布団に入ってから、勢い余って東宝新宿ビルで12時10分からやるボヘミアンラプソディーの席を予約していたのだ。

そうして、10時40分に起きれば大丈夫だろうと、その時間に目覚ましをかけていたはずなのに。自分にしては珍しいほどの寝坊である。

昨日の日光浴の影響だろうか。

いつもやっていないことをやるととたんに効果を示すのはプラシーボだろうか、僕の騙されやすさだろうか、どちらにしろ同じことか。

とにもかくにも、と、大急ぎで支度を整えて家を出る。

雨だ。しかも傘が必要なほどの。

僕はさほど雨に濡れるのが苦手ではないので、些細な雨なら濡れてよいという気持ちで傘を持たずに出ていく。濡れることよりも、荷物が増えることのほうが苦手なのである。今日はそんな僕をしても、嫌がるほどの雨だった。

アパートの階段を降りて足早に駅へ向かう。この時間ならきっと24分の準特急に間に合うはずだ。

電車の時間を調べたい、調べたいけれど、スマホを開くのは駅についてからでもいい。

そんなふうに焦ってはみたのだけれど、結局、望んでいた準特急には余裕で間に合い、ホームで少し電車を待つほどになった。

 

380円のビニール傘を神経質に筒状に丸めながら、ついこの前東急ハンズを小一時間うろついたことを思い出したのだが、このことはまた別の機会に書くとしよう。

日曜日の昼間だと、京王線準特急でも乗車率100%超ということにはならないらしい。「混んでいる」とは思わない。生まれ育った群馬県の田舎町からの電車の混み具合を思い出すようだ。

 

準特急の電車はさすがに早く、すぐに目的の新宿駅に辿り着いた。

あとはここからゴジラが顔を出す東宝ビルまで向かうだけだ。

 

新宿はさすがに混雑していた。いや、逆に、新宿が混雑していない日などあるのだろうか。テロでも起きない限りは、新宿に集まる人たちが、別の街へ向かおうと思うことはないのではないかとすら思う。いや、もしかしたら、テロが起きていたとしても、この街に集まってくる人たちは、それにすら気づかないんじゃないかとも思う。

 

歌舞伎町のメイン通りを抜けて、映画館が入っているビルのエスカレーターを上る。

時間的には、余裕だ。

コーラは? ポップコーンは? という考えが一瞬頭をよぎったが、すぐに打ち消された。いらないな。一人で映画を見るのは、そういうものではないんだ。

 

今日の映画はボヘミアン・ラプソディー。イギリスのロックバンドクイーンの自伝的映画だ。

 

先週、職場で歓送迎会があり、この映画のことが飲み会の席での話題にのぼった。

ある女子社員は、既に四回観に行っていて、四回目は一緒に歌うシチュエーションの上映に行ったらしい。

ほかにも3名既に鑑賞してい社員があって、何がいいとは言わないくせに「感動した」「よかった」と口々に言うのである。

そんなの、僕に観たいに決まってるじゃないか。

 

土曜は席が取れなかったので、いっそ早い時間に観てやれ! と思って、新宿まで来た。

 

けっしてハンサムではない、でも天才で、カリスマな、フレディー=マーキュリー。

妻メアリーへの純愛を誓いながらも自分のセクシュアリティーに悩むフレディー。

家族との軋轢。メンバーとの衝突。酒とドラッグとセックスに溺れる日々。

エイズの感染。

 

ストーリーに言うことはない。

クイーンというバンドを、フレディー=マーキュリーという人物を少しでも知っていれば「どうせこういうストーリーなんだろうな」というものは想像できるだろう。

そのとおりである。ひねりはない。驚きもない。

おそらく、クイーンのディスコグラフィーと、ゴシップを知っていれば、たいていの人が、日本人でさえ、想像できるようなストーリーであったと思う。

 

ひねりも、驚きも、仕掛けもない自伝映画が、なぜこんなにヒットしているのか。

ひねりなんか、驚きなんか、仕掛けなんかいらないのだ。

あったことを、あったまま、できうる限り忠実に再現することで、ぞんぶんに人を感動させうる力があるのだ。

だから、敢えて言うのであれば、この映画の一番の魅力は、クイーンの魅力を、さぼらず、漏らさず、真摯に観客に伝えようとしているところだと思う。

 

たとえわかりきっている展開であれ、それが神がかって素晴らしいものであれば、人は称賛を送らずにはいられないのだ。

 

僕のとなりの少年たちはしじゅう体でリズムを取っていたし、僕自身は涙でどろどろだった。

なんで涙が出るのかはわからない。とてもいいものを見させてもらっから、感動して、涙が出たのだろう。

 

本家をなぞったものであったとしても、映画として、観客と一体と化したステージングは、圧巻の一言に尽きる。

語彙が死んで、「すごかった」としか言えなくなるのもわかる気がした。

 

来た時と同じ、一人で映画館を出る。

僕は、でかけるときよりも、数段うきうきとした気持ちで、雨の新宿へ駆け出した。

 

 

死ぬまで暇はつぶせない

「人生は死ぬまでの暇つぶしだ」と、少年は言った。少年は重度の中二病を患っていたのである。なんとおいたわしや、である。

 

人生が死ぬまでの暇つぶしだとはよく言ったもので、おぎゃーと生まれて零からはやばや七十年、その間の今このときも、すべては意識を失うまでの暇なのだと言うのだ。どうせ死ぬんだからなにやっても一緒ダロ? 変にアツクなるのはやめようゼ? フッ(微笑)みたいな。だから死ぬのなんか全然怖くねーんだぜ、的な。

 

その思想の原因が中二病という疾患だとするならば浅はかと言わざるをえないのだが、はたまたそれがお釈迦様のおっしゃるところにはなどと言い始めたらおそらく途端に尊くもなってしまうのだ。来世がんばれって。

 

たとえ来世での幸福が約束されていたとしても、こうやって心臓を動かして、呼吸を繰り返している今このときさえもが、「死ぬまでの暇つぶし」なのだとしたら、俺はそんな人生を与えた神様とかいうやつが憎いね。だって、どう考えても暇が長すぎるだろ。

 

暇ってね、「何もしない」ことじゃなくて、「何もすることがない」ことなんだよ。

「何か」はしたいんだ。何もしないをしたいんだったら、ぼんやりしたいんだよ。

そうじゃなくて、暇な状態っていうのは、何かに情熱を傾けたい、夢中になっていたいのに、それが手に入らないで、うろうろしている時間のことなんだよ。時間が過ぎていっているのがわかるんだ。自分が今まさに一分、一秒を無駄にしているのがわかる、それが暇なんだよ。

 

暇の正体をそうして突き止めたとするなら、「人生は死ぬまでの暇つぶし」という言い草は、ある意味で滅法正しいんだ。

 

人生という長い長い無駄な時間を、天より高く俯瞰で捉えて、そんなものに一生懸命になったって仕方がないだろうと冷笑してるわけでしょ。

本当にそういう気持ちで、巷の中学二年生が、理解して言っているのだとしたら、達観していると感心せずにはいられないね。

 

だって、僕はまだどうしたってそんなふうには思えないもの。

僕は死ぬのが怖い。

いつか死ぬのはわかってるくせに、あと何十年かでだいたい何歳くらいで死ぬだろうことは容易に予想できるのに、何か(ごく些細でも、なんでもいいんだけど)を達成できそうにはないんだ。

 

何かに夢中になることもなく、誰かをひどく愛することもなく、達成することもなく、それこそ、暇を持て余したまま日々を重ねていくことは、恐怖でしかない。

 

人生が死ぬまでの暇つぶしなんだったら、暇をつぶすのにも必死だよ。

みんな必死こきまくってると思うんだよ。

 

宗教観は特にないからさ、あの世も来世も輪廻転生も人並にも信じてないのさ。だからね、僕は死んだら、死んだらというか、肉体の寿命が来て意識が途切れたら、それで終わりなんだって思ってる。寝て、起きることがない、それだけだと思う。

ただ、寝るみたいに、自分から床に入るんじゃなくて、今まで知らなかった外部の力で強制終了させられるような、そんな感覚なんじゃないかなあと思うんだ。

それってきっと、生まれたときに、無理やり人間として起動・覚醒されたときみたいに、一個、生命が始まって、一個、生命が終わる、そんなもんなんじゃないかと思うんだ。

 

自分の意のままにならない、見えざる力がさ、一瞬バチバチっと働いて、僕を今いるこの世界からログアウトさせるわけだよ。

想像するに、そのあとはずっと真っ黒な画面が永遠に続いているんじゃないかな。でも、そこに画面があることも、視界があるのかも、意識を失ってしまっているから気づくことができないんだ。誰にも観測されずに、僕は僕という存在を一瞬で忘れて、二度と戻ってこないんだよ。

 

そんな自分勝手な終了が用意されていると思ってしまったら、昨日を、おとといをその前の日を一週間前を、僕はなにして生きてたろうって、もったいなく思ってしまうんだ。

 

でも、まあ、それって死ぬ日のことを考えてしまった(思い出してしまったといったほうがいいかもしれない)瞬間だけなんだけどね。

 

できれば、そんなことに気づかないくらいに、何かに夢中になって、誰かを好きになって、大切なものに気付いて、守って、あっという間に年を取って、あっという間に死んでいけたらいいなあと僕は思うんだ。

そして、年老いて体が弱くなって、一人で何もできなくなる前に、何かひとつくらい、胸を張って「成した」と言えるものがあったら、それほど素晴らしい人生はないんじゃないかと思うんだ。

 

だから僕は暇が怖い。

何もしないで、ただただ過ぎていってしまう時間が怖い。

何にも夢中になれず、誰も愛することができず、大切なものに気付くことができず、守るものもなく、あっという間に年を取って、「まだ何もしていないの」と叫びながら、死んでいくのが怖い。「まだ何もしていないのに」と言いたいのに、年老いすぎて声すら枯れてしまって、何も成していないから誰の記憶にも残らなくて、そうして死んでいくことがすごく怖い。どうせ、そんな風に死んでいくであろうと考えてしまうから、考えてしまうたびに、どうしようもなく怖い。

 

生きたあかしとまでは言わないけどさ、せっかく考える頭だけはまっとうにあるみたいだから、日々、日々、何かを思って、文字でも書いてたら、少しは、まあ、救われると思うんだけどね。

 

 

 

暇がこわい人たち

僕はここ何年かtwitterをやっている。

タイムラインにソシャゲのガチャで手に入れたレアモンスターを呟く人が何人かいる。

失礼ながら、僕はこの行為に対して「暇なんだな」と思ってしまう。

ソシャゲを、自分自身がすべてやめてしまったからというのもある。だって、あんな終わりの見えない苦行の何が楽しいのだろうかと自分は思ってしまったのだ。苦行林の僧侶でもなければそれ以上続くわけもない。

 

ソシャゲにおいては、「レアキャラを引く」ということは、ものすごく幸福なことなのであろう。でなければわざわざ画像をつけてご報告致してくださることもあるまい。

しかして、ソシャゲが楽しいかどうか、プレイヤーの人生にとって有益か否かは、プレイヤー自身が決めることであって、そうでないと思うなら明日にでも、それまで貯めに貯めたレアキャラクターや経験値とともに、アンインストールしてしまえばいいだけの話だ。

他人が無遠慮に首を突っ込んでいって「それは人生の無駄ですよ!」と「正しい人生の方向性」とやらを示そうというのなら、それこそ野暮というものだ。

 

そもそも、人生という厄介な代物に、過去から未来へ歴然もして繋がる、誰しもが納得しうる「正しさ」というものがあるというのなら、それほどわかりやすいことはない。

 

人生に多様性が取り沙汰されて随分になるが(あれはもう流行と言ってしまって差し支えないと思う)、多様性が重視される反面、それまで大きな勢力を持っていた、「誰かの背中を追ってさえいれば大きな失敗もしない」という、「モデルケースをなぞる生き方」、および「価値基準を先人に委ねる生き方」が、大多数の選択肢の一つにまで格下げされてしまっているように思う。

 

ここまで書いても自分としては、多様性ドンと来い派の人間のつもりでいるのだが、誰かに主体を委ねないと生きていけない(たとえば親や学校や会社に)タイプの人間としては、いきなり声高に耳元で「多様性」と叫ばれたところで混乱してしまうだろう。だって、今までそんなこと言ってくる人はいなかったのだから。

 

それによって気づきがあったという部分も確かにあるだろう。自分という人間は、周囲に迎合して、本当の自分を圧し殺して生きてきたのだと、気付いた人もいるかもしれない。

だからこそもう自分を圧し殺すような生き方はやめて、思い残すことなく課金して、時間の許す限りイベントを走ろうと、心に誓うプレイヤーもいることと思う。

この生き方を「暇だ」と断ずることが誰にできようか。

人の生き方は様々、幸福のかたちもさまざま、生きがいも、時間の使い方も命の使い方も、さまざまあるのだ。重要なのは、当人がその生き方が好きかどうかだ。

 

しかし、僕はまったくソシャゲをやらない。

だから、敢えて、全然知らずに、全然学ぼうともせずに、彼らの生き様について「暇なんだなあ」と口走ってしまいそうになる。

 

会社についたので今日はここまでとする。

パチンコやめたい

両隣の筐体が轟音とともに確立変動に入った。
(どうせ単発か、続いたとしてもすぐに終わるだろう)という僕の予想に反して、連続大当たりを続けている。
それに対して僕が「これだ!」と選んで座った台はうんともすんとも言わず、やかましいので音量をOFFにしていたので本当にうんともすんとも言わず、たまに稼動する役物の反動で少しハンドルが揺れる程度の感覚しか味わえない。
ここまで書いて、わかる人は「こいつパチンコ打ってやがる」とわかるのだろうが、そうでない人はわざわざ足を踏み入れようと思う世界でもないはずだ。
筐体とはパチンコ台のこと、確立変動とは大当たりのあとの「大当たりが引きやすくなる変動」のこと、役物とはパチンコ台に付いていて、演出と応じて動く仕掛けのこと、演出とは……と、別にパチンコ学参考書を作りたいわけではないのでこれ以上は書かない。
ともかく、僕はその日パチンコを打っていて、両隣に座っている人はかなり儲けたであろうにもかかわらず、自分には一切「勝ちぶん」がなかったという話だ。
一玉一円のパチンコ台に三時間座り、大当たりを二回引き、五千円負けた。いつも、店を出て頭を冷やしてみて思う、一回のゲームにいくらかかるか、何時間そこにいたか、機械を何回転させて、何回当たりを引いて、結局収支はいくらだったのか、重要なところはそこではない。
重要なのは、つくづく無駄な時間を過ごしたということだ。
僕は他人の趣味をとやかく言えるほど偉い人間ではないが、勝ったとして負けたとして、本人がそれで楽しんでいるのならばそれでいいのだ。
僕の問題の本質は、「つくづく無駄な時間を過ごした」と本人が自覚しているにもかかわらず、その無駄がやめられないことである。
そんな「無駄」が五年間も続いている。理性でもって考えて、異常としか言いようがないのだ。

そこまでわかっていて、なぜ僕という一人の人間はパチンコがやめられないのだろう。
もちろん、当たったときの楽しさはある。当たり続けているときの楽しさは爽快だ。
各社趣向を凝らしたド派手な演出で、遊戯者を楽しませてくれる。
ただし、つまらないときは本当につまらない。四時間、五時間と店に居座り続けて、他人が吐いたタバコの煙に蒸せながら、しじゅうイラついている。
パチンコが趣味の人は、今度自分が遊びにいったとき、自分の周りの客を見回してみてほしい。
機械工場の煙突のように常に紫煙をまといつつ、しかめ面をして、貧乏ゆすりをしている彼らの様子を見てみてほしい。
楽しんでいるように見えるだろうか? ひとりひとりではなくて、全体的に見て、だ。
僕には楽しんでいるようには見えないのだ。乱暴に言ってしまうならば、「無理やりパチンコを打たされている」ように見える。

王子製紙の元会長の話をご存知だろうか?
海外のカジノにはまって、会社の金にもまで手をつけて身を滅ぼす借金を負った。
問題の規模の大小を論じるのはやめよう。根っこには「ギャンブル」と「依存」の関係があるのだ。
王子製紙の元会長はなぜ身を滅ぼすまでギャンブルに金をつぎ込んでしまったのか?
絶対に勝てると思っていたから? それほど大きなリスクだとは思わなかったから?
「勝負」という言葉を持ち出すと結論からはどんどん遠ざかる。
僕が思うに、だ。ギャンブルがやめられないのは、ギャンブルに依存しているからだ。

ギャンブルで勝った瞬間、脳からは多量の快楽物質が放出される。
パチンコで言うなら、319分の1の当たりを引いた瞬間、えもいわれぬ幸福な気分になることができるのだ。
しかし、このパチンコで得られる幸福感を一度でも味わってしまうと、刺激的過ぎるその感覚に脳がその快楽の味をすっかり覚えてしまい、同じ幸福感は「パチンコで当たったときにしか」味わえなくなってしまうのだ。

テストで高得点を取った。
希望の学校に合格した。
試験に受かった。
練習を積み重ねてスポーツの試合に勝った。

達成感で脳が幸福感を得られる瞬間はほかにもあるだろう。
しかし、ギャンブルで得られる快感はほかのなにものでも代えることができず、
ギャンブルは知識や、練習で、勝てる確立をあげることができるものではないのだ。

仕事が休みになるといつもパチンコ屋にいる。
そんな人は、もうすでに脳の「幸福を感じる部分」が麻痺しているのかもしれない。

だから、どんなに負けていようとも、当たりが見たくて、銀色の玉を穴に通すというだけのゲームに彼らは大金を興じるのだ。

これがギャンブル依存症、およびパチンコ依存症の原理であると僕は考える。

楽しいことがほかにないから、パチンコを打つ。
パチンコ屋に行くのに友達はいらないし、ほかの客とコミュニケーションを取らなければいけないということはない。
ひとりでもじゅうぶんに楽しめてしまうパチンコで、勝つか負けるかは脇に置いておいて、とりあえず当たりが見られるまで、お金をつぎ込み続ける。
パチンコが趣味の人は、パチンコを打ちたくて打っているわけではない。
パチンコを打たずにはいられないからパチンコを打っているのだ。

はまってしまうと、パチンコはその人の人生からいくつも大切なものを盗んでいく。
パチンコ遊びをしたことがない人は、盗まれるというとすぐお金のことだと思うかもしれない。
しかしそれだけではない。
大きく三つ、時間、お金、やる気、これらがパチンコによって損なわれる物の代表格であると思う。
そのほかにもタバコの煙によって健康を害することもあるだろうし、騒音の渦中に長時間いて頭痛に悩まされることもあるだろう。
長時間同じ姿勢でいるから肩や腰には早々とガタが来てしまうに違いない。

不健康極まりない、日本の時代の遺物とも言えるパチンコを、遊びと割り切って楽しんでいる、ふりをしている人もたくさんいる。
唯一の趣味だから取り上げないでほしい、と。
確かに、遊びだと思えばなんてことはない。

しかし、「パチンコにしか人生の楽しみを見出せない」なんて生き方を、あなた自身がしていたとしたら、そんな自分を根っから肯定できるだろうか。どこか、心の奥底で、自分に嘘をついているような気がしないだろうか。

それでも、「自分の金で遊んでいるんだ、負けたとしても自分が損をするだけなのだからほっておいてくれ」という人はたくさんいるだろう。
うまいこと付き合えばほどほどの娯楽として機能するのかもしれないし、実際にそのように機能するという側面があるから、日本ではいまだにパチンコ産業が、身近な娯楽として生き残っているのだと思う。

だが、僕は思う。
やめられるものならやめたい。
新台の演出も、イベント日の設定も、気にならない体に(頭に)戻れるなら、今日にでも戻してほしい。

半日以上の時間と、何万円という軍資金を投資して、何も得られずにただただくたびれて店を後にしたことが、今までの人生で何回あっただろう。
数えていなくてよかった。もし、その回数を数えていたとしたら、僕はそこに歴々と積み重ねられた「無駄」の山に、涙を流さずにはいられなかったであろう。

今日は5千円負けた。昨日は6千円、おとといは4千円。
できるだけ考えないようにしているのだが、負けた金額を数えるたび、「この金で何ができたか」を考える。

月に少なくとも2~3万円負けるとすれば、入会に迷っていたフィットネスジムの会費は楽々払えるし、
そうしなかったとしても、月に2~3万円のお小遣いが手元に残るということだ。

巷には、パチンコ必勝法やら、パチンコで稼ぐ方法やら、パチプロへの道やら、いかにもいかがわしい言葉がたくさんあるが、パチンコでの勝負を金銭で考えるなら、勝ち負けで考えるなら、必勝法は「一度も打たない」しかない。

大学時代、悪友に誘われて初めて入った新宿エスパス、あの日に戻れるなら、
僕は僕に「つまらないことはやめろ」と軍資金をかっぱらってやりたい。

では、今日に至るまでに、「趣味だから」、「唯一の息抜きだから」、「たまに勝つこともあるし」と嘯いて、パチンコを打ち続けてきた僕が、パチンコ業界にお布施を上納し続けてきた僕が、そのため既に何百万円と負けてしまっている僕が、これ以上負けないためにはどうしたらいいのだろう。

これ以上、時間を、お金を、やる気を、パチンコという負のシステムに搾取されないようにするにはどうしたらいいのだろう。

方法はひとつしかない、二度と打たないことだ。

お気に入りのメーカーの新台が出たからといって、パチンコ屋に足を踏み入れない。
仲のいい友達に誘われたとしても、断る。
ユーチューブで激アツ演出動画を検索しない。

まず、二度とパチンコは打たないと決める。
そして、パチンコに関連することには二度と近寄らないようにする。

ただし、いまだに「楽しそうにパチンコを打ってる人」がいたとしても、馬鹿にしないこと。
世の中には、本当に趣味がパチンコしかなくて、生きがいがパチンコしかない人というのも存在する。
その人たちの最後の生きる希望を踏みにじるようなことは、できるだけしないほうがいいと思う。
(震えた手で海物語の台をバンバン叩いているご老人を思い浮かべてほしい)

と、ここまで書いて自分が述べている「パチンコのやめ方」がアレン・カーが書いた「禁煙セラピー」の方策とほぼ同じであることに気づいた。
禁煙と禁パチ。
根っこが心理的な依存であるのは同じだが、禁煙と禁パチは、さてどちらのほうが難易度が高いのだろう。

 

文章

文章を書き散らかしたあとは、とてもすっきりした気持ちでいる。

どうやら、「ものを書く」という行為にはデトックス効果があるらしい。

変にかまえずに、書きたいときに書けばいいのだと思った。

推敲も同じだ。