遠浅の海、羊の群れ。

羊の群れは、きまって遠くの向こう岸で、べえやべえやとわなないている。

ブログっていいよね

台風が来るという話だが、今日も明日も在宅勤務の僕にはまるで関係のないことのようにも思える。

少なくとも、行きと帰りの電車に困るということはないはずだ。

大風を待ってか、気温は下がり、昨日や一昨日に比べると明らかに過ごしやすい気候であった。

さて、僕のブログというものに対する姿勢を書こう。

僕というヒトは今年で三十歳を過ぎてさらに数年になるのだが、振り返ると十代、二十代と自意識の肥大した野郎だった。

その男には、スポーツに汗を流すような爽やかさは微塵もなく、非現実の欲望と現実にそぐわないストレスとをどうにかして発散する必要があった。そこで日記をつけるようになった。書いていた内容がどんなものであったかそれはもはや思い出せないし、書いては読んで、読み返して、ある程度溜まったなら、すべて消すといった病的な習慣が身についていた。

だからといって、誰かの世間の偉い人の悪口を書き散らすといったような不幸なやり口ではない。そのときに感じていたことや思っていたことをそれはそれは丁寧に書いていたように思う。思い出せば思い出すほどに我ながら気持ちが悪いとしか思えないのが悲しいところではある。

「導火線に火が付いたように」と言うが、あんな感じだ。チリチリと火花を散らしながら燃える、長い、長い導火線の火種に急かされて、僕は絶え間なくキーボードを叩いていた。苛立って苛立ってキーボードを叩いていた。そうして、導火線の火種が特大の火薬に達する頃、爆発という事象とは正反対に、クリックひとつでまるごとのアカウントを削除するのだ。なんであんなことを繰り返していたのか、今となってはわからない。当時にタイムスリップしたとしても、わからないのだと思う。いうなれば何かしらの精神疾患であったように思う。

 

そんな病気療養と並行して、僕のネット人生にTwitterが導入された。

Twitterの良いところは140字しか書けないこと、Twitterの悪いところも140字しか書けないこと、やり始めの僕はそんなふう考えていたように思う。

 

制限なく書くことができていたブログに比べて、Twitterの140字というルールは熾烈だった。だらだらと自分の返信という形で書き連ねることもできるが、なんだかそれは違うのだ。端的に言うと、一つの事柄を140字に収められないことは、格好が悪いと思う。

8年も続けた今となっては、自分へのリプもするし、敢えていくつかのツイートに分けて投稿することもあるが、始めたばかりの頃は140という文字制限に、僕はとてつもない美学を感じてしまっていた。まず到底入り切らないほど書く、そのうえで140字に収まるよう文字数と蛇足を削っていく。プラスマイナスゼロ字の自己満足に酔って、それはそれでそこそこ楽しかった。

しかし、やっていくに連れて、フォローフォロワーが増え、タイムラインに流れる事柄も増えた。するとどうだろう。みんながみんな好き勝手にくだらないことを呟いていいはずだったTwitterの世界に、さかしらに議論を持ち込む奴らが見えてきた。しかも、140字という制限の世界である特定のワードをクローズアップして叩く騒ぐ喚く吊し上げる、まるで目に余る。140字の文章表現で自分の言いたいことほすべてを伝えられる人などそうはいない。それに、どんなにウィットに富んで皮肉めいたことを言ったとしても、受け手の教養が追いついていなければ単なる批判と受け取られてしまうことすらある。にもかかわらずその無教養なうえ脊髄反射でしか物事が考えられない奴らは、勘違いをしたままに誰に正されることもなく、怒れるメッセージをダイレクトアタックできてしまうのだ。

背筋も凍る恐ろしいシステムである。

かといって、その只中に巻き込まれることなどめったになく、僕自身はつねほのぼのとTwitterをやっている。

 

それでもやはり、「足りない」と感じる瞬間は多い。というよりも、ブログとTwitterを比較すること自体がナンセンスなのかもしれない。違うのだ、根本が、少なくとも僕はそう思う。

Twitterは、言うなれば「長い見出し」である。本文のようでいて本文ではないのだ。かといって、その表現から始まってソースを調べようと思う人は少数派なのではないかと思う。流すように読んで、いや、読むというよりは見て、見た瞬間にどう処理するか決めるのだ。読み流すか、ハートを押すか、リツイートをするか。この行程の中で、「考える」という時間はあまりにも短い。

対してブログは、あくまでも読むものだ。そりゃ、人によっては写真だけ載せておはようおやすみこにゃにゃちはで終わる場合も多いにあるが、だったらTwitterでやれと思うし、それこそそういうタイプの文学はinstagramでやればいいと思う。

ブログの利点は活かしきれていない。ナンセンスと言いつつ延々比較しているのだが、TwitterinstagramなんかのSNSとブログが大きく異なるのは、その文字量によるところだと思う。文字量=情報量と言ってもいい。データ量で言えば、画像や動画をつけた場合SNSのほうが断然大きくなるのだが、テキストの量で言えば、ブログは最大だ。何文字でもいける。いけてしまう。だからこそ、読む側にもそれなりの覚悟を強いるのだ。

あくまでも文字だけのブログで考えた場合だが、140字とか、動画とか、映えとか、そういう特殊技能は要らない。文字だけで上手いことを書こうと思ったら、ただただ巧いことを書くしかないのだ。工夫はテキストでしかできない。

 

そりゃ、やろうと思えば文字を大きくしたり、色をつけたり、画像を挟んだりしたほうが効果的だろうけど。

 

僕が言ってるのは、あくまでも日記文章単体の技量をもって面白いか否かの駆け引きである。

 

そういう、暴力的とも言える愚直さが、好きなんだよねえ。

 

一万字、二万字、三万字の語り部筆者の唾が飛んでいるのが見えるような重厚な評論の最後に、「なんちゃって」と書いた紙を伏せておくような、単純だからこそ深いテキストの遊びが、それはそれで、好きなんだよねえ。