題目知らず
今後、書きたいことはここに書く。
僕は「ブログ」というものに懐疑的だ。
「ブログとは現代の随筆である」と言われたところで、さて何を書いたらいいものか、皆目見当がつかない。
あのブログ閲覧数年間〇位の著者が遂に出版! と煽られたところで、そんなものはブログ国ブログ群ブログ村でやっていることであって、僕のところまでそのスゴさは届いてこない。
ブログとはなんぞや。
ブログ、ブロガーなんて言われると、ちょっと出の芸能人が飲料メーカーの新商品を宣伝してお小遣い稼ぎをしているだとか、そんな使われ方しかイメージできないのだが。
社交的になるならfacebookで、マウンティングするならインスタグラムで、炎上するならTwitterで、今や最新のトレンドはSNSだ。アメブロでもなく、yahoo!ニュースでもなく、SNSが最新の(不確かな)情報を運んできてくれる。
僕が、人のブログに対峙するときは、そう、「ネクタイの締め方」とか、「油汚れの落とし方」とか、「最新ドラマのネタバレ」とか、とにかくどこにでもあるようなくだらない情報を寄せ集めて、その周囲にペタペタと貼られた広告へ誘導したぶんのPAでお小遣いを稼いでいるもの、そういう類のブログに、かなしいかないつも行き当ってしまう。
「上司の誘いをうまく断る7つの方法」とか。
一番上から一番下までざっくり読んで、「うん、全部知ってる」と思ってるところに「いかがでしたか? 解決の仕方は状況や環境によっても変わってくるみたいですね」なんて、とにかく毒にも薬にもならない、「検索で引っ掛かりそうなワード」をたくさんちりばめただけの便所の落書きにも劣る代物に行き当ってしまったりするのだ。
実際に、それで生計を立てている人もいるのだろう。
ブロガーという生き方で、契約している企業の広告にどれだけ誘導したかで過去未来の貧富が変わる人だっているはずだ。
でも、そんなのはつまらない。
何に価値があるかは人によって様々変わるのだと思う。
けれど、そんな便所の落書きにも劣る薄っぺらい文字の羅列に一体なんの意味があるのだろうか。
ネットさえあれば誰もがどんな情報にでもたどり着けると言われる現代である。
だが、だからこそなのか、僕は思うのだ、全然たどり着けていない、と。
そんな、広告に誘導することだけが目的の文章は、便所の落書きにすら劣る。
むしろ、便所の落書きには便所の落書きで、臭い立つような人間臭さとやばさがあるじゃないか、あれはあれで一種の芸術なんじゃないかと僕は思うんだけどな。
と、別に僕は今はやりのそういうブロガーを叩きたくてこんなことを書いているわけではないのだ。
情報が溢れすぎている今だからこそ、僕にとって価値のあるものに辿り着くことは、数が限られていた旧時代よりも困難になってしまっているのではないかと思うのだ。
ならばと僕は考える。
僕自身、ブログには何を書けばいいのかと。
結論として、何を書いてもいいと思う。
法律を守り、公序良俗に反せず、誰かの尊厳を貶めることがなければ、何を書いてもいいと思う。
そこそこに文字が書ける人間が、小器用になりすぎているのだ。
最初にブログで日記を書き始めた人に聞いてみたい。
「あなたがブログを書き始めたのは、商品を紹介することが目的でしたか?」と。
僕も長らく書いたり書かなかったりしてきたのだが、どうにも続かない時期があった。
だから、僕自身は僕の中にある「ブログ」というもののハードルを極端に下げたいと思う。
ブログには、何を書いてもいいとする。
思ったことなら、いや、思っていないことでも、指が動いてそうタイプしたものであるならば、何を刻んでもよいとする。
そうでなければ三日坊主が万年の病なのだから、日記なんて続くわけがない。
あいや、日記と呼ぶのもやめよう。
雑記、そう、雑記だ。雑記、備忘録、メモ、そんなところだ。
昔、母親が、近所の好まぬ人から電話がかかってきて、思いがけず長電話になってしまったときに、電話器の横のメモ帳に意味不明の落書きをこしらえていたのを覚えているだろうか? ひらがなとも記号ともつかない、なんらかのいびつなかたちの羅列は、望まない長電話の通話時間とともに増えていく。僕はブログをあんなふうに考えたいと思う。
だから、なにとも競わない。
SNSとも、便所の落書きとも、5ちゃんねるとも。
ブログなんてそんな大それたものではないからだ。
大それたものだと思ってしまったら、遅筆に限りがなくなる。
思ったら書く。それでおそらく相応しい。
そんなふうに、一応、考えだけは改めて、ブログなんてものは書きたいときに書けばいいと思う。
この画面の向こうに誰かがいるかなんてそんなことを気にしちゃならない。
僕が僕だけで語る単なる禅問答でいい。
思いも、言葉も、誰かを意識した時点でその容貌(かたち)を変えてしまうことがある。
だから、あくまでも思ったら思ったことを。
それで、「これはいいと思えたなら」あとで好きなだけ推敲したっていいのだ。
気負わず続けることが大事であると、僕は思うのだ。