遠浅の海、羊の群れ。

羊の群れは、きまって遠くの向こう岸で、べえやべえやとわなないている。

パチンコやめたい

両隣の筐体が轟音とともに確立変動に入った。
(どうせ単発か、続いたとしてもすぐに終わるだろう)という僕の予想に反して、連続大当たりを続けている。
それに対して僕が「これだ!」と選んで座った台はうんともすんとも言わず、やかましいので音量をOFFにしていたので本当にうんともすんとも言わず、たまに稼動する役物の反動で少しハンドルが揺れる程度の感覚しか味わえない。
ここまで書いて、わかる人は「こいつパチンコ打ってやがる」とわかるのだろうが、そうでない人はわざわざ足を踏み入れようと思う世界でもないはずだ。
筐体とはパチンコ台のこと、確立変動とは大当たりのあとの「大当たりが引きやすくなる変動」のこと、役物とはパチンコ台に付いていて、演出と応じて動く仕掛けのこと、演出とは……と、別にパチンコ学参考書を作りたいわけではないのでこれ以上は書かない。
ともかく、僕はその日パチンコを打っていて、両隣に座っている人はかなり儲けたであろうにもかかわらず、自分には一切「勝ちぶん」がなかったという話だ。
一玉一円のパチンコ台に三時間座り、大当たりを二回引き、五千円負けた。いつも、店を出て頭を冷やしてみて思う、一回のゲームにいくらかかるか、何時間そこにいたか、機械を何回転させて、何回当たりを引いて、結局収支はいくらだったのか、重要なところはそこではない。
重要なのは、つくづく無駄な時間を過ごしたということだ。
僕は他人の趣味をとやかく言えるほど偉い人間ではないが、勝ったとして負けたとして、本人がそれで楽しんでいるのならばそれでいいのだ。
僕の問題の本質は、「つくづく無駄な時間を過ごした」と本人が自覚しているにもかかわらず、その無駄がやめられないことである。
そんな「無駄」が五年間も続いている。理性でもって考えて、異常としか言いようがないのだ。

そこまでわかっていて、なぜ僕という一人の人間はパチンコがやめられないのだろう。
もちろん、当たったときの楽しさはある。当たり続けているときの楽しさは爽快だ。
各社趣向を凝らしたド派手な演出で、遊戯者を楽しませてくれる。
ただし、つまらないときは本当につまらない。四時間、五時間と店に居座り続けて、他人が吐いたタバコの煙に蒸せながら、しじゅうイラついている。
パチンコが趣味の人は、今度自分が遊びにいったとき、自分の周りの客を見回してみてほしい。
機械工場の煙突のように常に紫煙をまといつつ、しかめ面をして、貧乏ゆすりをしている彼らの様子を見てみてほしい。
楽しんでいるように見えるだろうか? ひとりひとりではなくて、全体的に見て、だ。
僕には楽しんでいるようには見えないのだ。乱暴に言ってしまうならば、「無理やりパチンコを打たされている」ように見える。

王子製紙の元会長の話をご存知だろうか?
海外のカジノにはまって、会社の金にもまで手をつけて身を滅ぼす借金を負った。
問題の規模の大小を論じるのはやめよう。根っこには「ギャンブル」と「依存」の関係があるのだ。
王子製紙の元会長はなぜ身を滅ぼすまでギャンブルに金をつぎ込んでしまったのか?
絶対に勝てると思っていたから? それほど大きなリスクだとは思わなかったから?
「勝負」という言葉を持ち出すと結論からはどんどん遠ざかる。
僕が思うに、だ。ギャンブルがやめられないのは、ギャンブルに依存しているからだ。

ギャンブルで勝った瞬間、脳からは多量の快楽物質が放出される。
パチンコで言うなら、319分の1の当たりを引いた瞬間、えもいわれぬ幸福な気分になることができるのだ。
しかし、このパチンコで得られる幸福感を一度でも味わってしまうと、刺激的過ぎるその感覚に脳がその快楽の味をすっかり覚えてしまい、同じ幸福感は「パチンコで当たったときにしか」味わえなくなってしまうのだ。

テストで高得点を取った。
希望の学校に合格した。
試験に受かった。
練習を積み重ねてスポーツの試合に勝った。

達成感で脳が幸福感を得られる瞬間はほかにもあるだろう。
しかし、ギャンブルで得られる快感はほかのなにものでも代えることができず、
ギャンブルは知識や、練習で、勝てる確立をあげることができるものではないのだ。

仕事が休みになるといつもパチンコ屋にいる。
そんな人は、もうすでに脳の「幸福を感じる部分」が麻痺しているのかもしれない。

だから、どんなに負けていようとも、当たりが見たくて、銀色の玉を穴に通すというだけのゲームに彼らは大金を興じるのだ。

これがギャンブル依存症、およびパチンコ依存症の原理であると僕は考える。

楽しいことがほかにないから、パチンコを打つ。
パチンコ屋に行くのに友達はいらないし、ほかの客とコミュニケーションを取らなければいけないということはない。
ひとりでもじゅうぶんに楽しめてしまうパチンコで、勝つか負けるかは脇に置いておいて、とりあえず当たりが見られるまで、お金をつぎ込み続ける。
パチンコが趣味の人は、パチンコを打ちたくて打っているわけではない。
パチンコを打たずにはいられないからパチンコを打っているのだ。

はまってしまうと、パチンコはその人の人生からいくつも大切なものを盗んでいく。
パチンコ遊びをしたことがない人は、盗まれるというとすぐお金のことだと思うかもしれない。
しかしそれだけではない。
大きく三つ、時間、お金、やる気、これらがパチンコによって損なわれる物の代表格であると思う。
そのほかにもタバコの煙によって健康を害することもあるだろうし、騒音の渦中に長時間いて頭痛に悩まされることもあるだろう。
長時間同じ姿勢でいるから肩や腰には早々とガタが来てしまうに違いない。

不健康極まりない、日本の時代の遺物とも言えるパチンコを、遊びと割り切って楽しんでいる、ふりをしている人もたくさんいる。
唯一の趣味だから取り上げないでほしい、と。
確かに、遊びだと思えばなんてことはない。

しかし、「パチンコにしか人生の楽しみを見出せない」なんて生き方を、あなた自身がしていたとしたら、そんな自分を根っから肯定できるだろうか。どこか、心の奥底で、自分に嘘をついているような気がしないだろうか。

それでも、「自分の金で遊んでいるんだ、負けたとしても自分が損をするだけなのだからほっておいてくれ」という人はたくさんいるだろう。
うまいこと付き合えばほどほどの娯楽として機能するのかもしれないし、実際にそのように機能するという側面があるから、日本ではいまだにパチンコ産業が、身近な娯楽として生き残っているのだと思う。

だが、僕は思う。
やめられるものならやめたい。
新台の演出も、イベント日の設定も、気にならない体に(頭に)戻れるなら、今日にでも戻してほしい。

半日以上の時間と、何万円という軍資金を投資して、何も得られずにただただくたびれて店を後にしたことが、今までの人生で何回あっただろう。
数えていなくてよかった。もし、その回数を数えていたとしたら、僕はそこに歴々と積み重ねられた「無駄」の山に、涙を流さずにはいられなかったであろう。

今日は5千円負けた。昨日は6千円、おとといは4千円。
できるだけ考えないようにしているのだが、負けた金額を数えるたび、「この金で何ができたか」を考える。

月に少なくとも2~3万円負けるとすれば、入会に迷っていたフィットネスジムの会費は楽々払えるし、
そうしなかったとしても、月に2~3万円のお小遣いが手元に残るということだ。

巷には、パチンコ必勝法やら、パチンコで稼ぐ方法やら、パチプロへの道やら、いかにもいかがわしい言葉がたくさんあるが、パチンコでの勝負を金銭で考えるなら、勝ち負けで考えるなら、必勝法は「一度も打たない」しかない。

大学時代、悪友に誘われて初めて入った新宿エスパス、あの日に戻れるなら、
僕は僕に「つまらないことはやめろ」と軍資金をかっぱらってやりたい。

では、今日に至るまでに、「趣味だから」、「唯一の息抜きだから」、「たまに勝つこともあるし」と嘯いて、パチンコを打ち続けてきた僕が、パチンコ業界にお布施を上納し続けてきた僕が、そのため既に何百万円と負けてしまっている僕が、これ以上負けないためにはどうしたらいいのだろう。

これ以上、時間を、お金を、やる気を、パチンコという負のシステムに搾取されないようにするにはどうしたらいいのだろう。

方法はひとつしかない、二度と打たないことだ。

お気に入りのメーカーの新台が出たからといって、パチンコ屋に足を踏み入れない。
仲のいい友達に誘われたとしても、断る。
ユーチューブで激アツ演出動画を検索しない。

まず、二度とパチンコは打たないと決める。
そして、パチンコに関連することには二度と近寄らないようにする。

ただし、いまだに「楽しそうにパチンコを打ってる人」がいたとしても、馬鹿にしないこと。
世の中には、本当に趣味がパチンコしかなくて、生きがいがパチンコしかない人というのも存在する。
その人たちの最後の生きる希望を踏みにじるようなことは、できるだけしないほうがいいと思う。
(震えた手で海物語の台をバンバン叩いているご老人を思い浮かべてほしい)

と、ここまで書いて自分が述べている「パチンコのやめ方」がアレン・カーが書いた「禁煙セラピー」の方策とほぼ同じであることに気づいた。
禁煙と禁パチ。
根っこが心理的な依存であるのは同じだが、禁煙と禁パチは、さてどちらのほうが難易度が高いのだろう。