遠浅の海、羊の群れ。

羊の群れは、きまって遠くの向こう岸で、べえやべえやとわなないている。

暇がこわい人たち

僕はここ何年かtwitterをやっている。

タイムラインにソシャゲのガチャで手に入れたレアモンスターを呟く人が何人かいる。

失礼ながら、僕はこの行為に対して「暇なんだな」と思ってしまう。

ソシャゲを、自分自身がすべてやめてしまったからというのもある。だって、あんな終わりの見えない苦行の何が楽しいのだろうかと自分は思ってしまったのだ。苦行林の僧侶でもなければそれ以上続くわけもない。

 

ソシャゲにおいては、「レアキャラを引く」ということは、ものすごく幸福なことなのであろう。でなければわざわざ画像をつけてご報告致してくださることもあるまい。

しかして、ソシャゲが楽しいかどうか、プレイヤーの人生にとって有益か否かは、プレイヤー自身が決めることであって、そうでないと思うなら明日にでも、それまで貯めに貯めたレアキャラクターや経験値とともに、アンインストールしてしまえばいいだけの話だ。

他人が無遠慮に首を突っ込んでいって「それは人生の無駄ですよ!」と「正しい人生の方向性」とやらを示そうというのなら、それこそ野暮というものだ。

 

そもそも、人生という厄介な代物に、過去から未来へ歴然もして繋がる、誰しもが納得しうる「正しさ」というものがあるというのなら、それほどわかりやすいことはない。

 

人生に多様性が取り沙汰されて随分になるが(あれはもう流行と言ってしまって差し支えないと思う)、多様性が重視される反面、それまで大きな勢力を持っていた、「誰かの背中を追ってさえいれば大きな失敗もしない」という、「モデルケースをなぞる生き方」、および「価値基準を先人に委ねる生き方」が、大多数の選択肢の一つにまで格下げされてしまっているように思う。

 

ここまで書いても自分としては、多様性ドンと来い派の人間のつもりでいるのだが、誰かに主体を委ねないと生きていけない(たとえば親や学校や会社に)タイプの人間としては、いきなり声高に耳元で「多様性」と叫ばれたところで混乱してしまうだろう。だって、今までそんなこと言ってくる人はいなかったのだから。

 

それによって気づきがあったという部分も確かにあるだろう。自分という人間は、周囲に迎合して、本当の自分を圧し殺して生きてきたのだと、気付いた人もいるかもしれない。

だからこそもう自分を圧し殺すような生き方はやめて、思い残すことなく課金して、時間の許す限りイベントを走ろうと、心に誓うプレイヤーもいることと思う。

この生き方を「暇だ」と断ずることが誰にできようか。

人の生き方は様々、幸福のかたちもさまざま、生きがいも、時間の使い方も命の使い方も、さまざまあるのだ。重要なのは、当人がその生き方が好きかどうかだ。

 

しかし、僕はまったくソシャゲをやらない。

だから、敢えて、全然知らずに、全然学ぼうともせずに、彼らの生き様について「暇なんだなあ」と口走ってしまいそうになる。

 

会社についたので今日はここまでとする。