遠浅の海、羊の群れ。

羊の群れは、きまって遠くの向こう岸で、べえやべえやとわなないている。

ボヘミアンラプソディーを観た。

朝、彼女が出ていくのにまるで気が付かなかった。

一度9時くらいに起きたはずなのに、眠くて眠くて、なんでこなんなに眠いのかと思うほど眠くて11時まで寝ていた。

10時40分のアラームは何回かスヌーズしたことになる。

今日は映画を見る予定だったのだ。

昨日の深夜、布団に入ってから、勢い余って東宝新宿ビルで12時10分からやるボヘミアンラプソディーの席を予約していたのだ。

そうして、10時40分に起きれば大丈夫だろうと、その時間に目覚ましをかけていたはずなのに。自分にしては珍しいほどの寝坊である。

昨日の日光浴の影響だろうか。

いつもやっていないことをやるととたんに効果を示すのはプラシーボだろうか、僕の騙されやすさだろうか、どちらにしろ同じことか。

とにもかくにも、と、大急ぎで支度を整えて家を出る。

雨だ。しかも傘が必要なほどの。

僕はさほど雨に濡れるのが苦手ではないので、些細な雨なら濡れてよいという気持ちで傘を持たずに出ていく。濡れることよりも、荷物が増えることのほうが苦手なのである。今日はそんな僕をしても、嫌がるほどの雨だった。

アパートの階段を降りて足早に駅へ向かう。この時間ならきっと24分の準特急に間に合うはずだ。

電車の時間を調べたい、調べたいけれど、スマホを開くのは駅についてからでもいい。

そんなふうに焦ってはみたのだけれど、結局、望んでいた準特急には余裕で間に合い、ホームで少し電車を待つほどになった。

 

380円のビニール傘を神経質に筒状に丸めながら、ついこの前東急ハンズを小一時間うろついたことを思い出したのだが、このことはまた別の機会に書くとしよう。

日曜日の昼間だと、京王線準特急でも乗車率100%超ということにはならないらしい。「混んでいる」とは思わない。生まれ育った群馬県の田舎町からの電車の混み具合を思い出すようだ。

 

準特急の電車はさすがに早く、すぐに目的の新宿駅に辿り着いた。

あとはここからゴジラが顔を出す東宝ビルまで向かうだけだ。

 

新宿はさすがに混雑していた。いや、逆に、新宿が混雑していない日などあるのだろうか。テロでも起きない限りは、新宿に集まる人たちが、別の街へ向かおうと思うことはないのではないかとすら思う。いや、もしかしたら、テロが起きていたとしても、この街に集まってくる人たちは、それにすら気づかないんじゃないかとも思う。

 

歌舞伎町のメイン通りを抜けて、映画館が入っているビルのエスカレーターを上る。

時間的には、余裕だ。

コーラは? ポップコーンは? という考えが一瞬頭をよぎったが、すぐに打ち消された。いらないな。一人で映画を見るのは、そういうものではないんだ。

 

今日の映画はボヘミアン・ラプソディー。イギリスのロックバンドクイーンの自伝的映画だ。

 

先週、職場で歓送迎会があり、この映画のことが飲み会の席での話題にのぼった。

ある女子社員は、既に四回観に行っていて、四回目は一緒に歌うシチュエーションの上映に行ったらしい。

ほかにも3名既に鑑賞してい社員があって、何がいいとは言わないくせに「感動した」「よかった」と口々に言うのである。

そんなの、僕に観たいに決まってるじゃないか。

 

土曜は席が取れなかったので、いっそ早い時間に観てやれ! と思って、新宿まで来た。

 

けっしてハンサムではない、でも天才で、カリスマな、フレディー=マーキュリー。

妻メアリーへの純愛を誓いながらも自分のセクシュアリティーに悩むフレディー。

家族との軋轢。メンバーとの衝突。酒とドラッグとセックスに溺れる日々。

エイズの感染。

 

ストーリーに言うことはない。

クイーンというバンドを、フレディー=マーキュリーという人物を少しでも知っていれば「どうせこういうストーリーなんだろうな」というものは想像できるだろう。

そのとおりである。ひねりはない。驚きもない。

おそらく、クイーンのディスコグラフィーと、ゴシップを知っていれば、たいていの人が、日本人でさえ、想像できるようなストーリーであったと思う。

 

ひねりも、驚きも、仕掛けもない自伝映画が、なぜこんなにヒットしているのか。

ひねりなんか、驚きなんか、仕掛けなんかいらないのだ。

あったことを、あったまま、できうる限り忠実に再現することで、ぞんぶんに人を感動させうる力があるのだ。

だから、敢えて言うのであれば、この映画の一番の魅力は、クイーンの魅力を、さぼらず、漏らさず、真摯に観客に伝えようとしているところだと思う。

 

たとえわかりきっている展開であれ、それが神がかって素晴らしいものであれば、人は称賛を送らずにはいられないのだ。

 

僕のとなりの少年たちはしじゅう体でリズムを取っていたし、僕自身は涙でどろどろだった。

なんで涙が出るのかはわからない。とてもいいものを見させてもらっから、感動して、涙が出たのだろう。

 

本家をなぞったものであったとしても、映画として、観客と一体と化したステージングは、圧巻の一言に尽きる。

語彙が死んで、「すごかった」としか言えなくなるのもわかる気がした。

 

来た時と同じ、一人で映画館を出る。

僕は、でかけるときよりも、数段うきうきとした気持ちで、雨の新宿へ駆け出した。