遠浅の海、羊の群れ。

羊の群れは、きまって遠くの向こう岸で、べえやべえやとわなないている。

情熱が枯渇したら

35歳になった。

十代の頃に考えていた35歳といえば、名実ともに完璧なおじさんである。
二十代の頃に考えていた35歳も、名実ともに完璧なおじさんだった。
と、いうことは、僕は今名実ともに完璧な、純粋な、混じり気のない、正真正銘のおじさんになったということだ。

祝え、新たなおじさんの誕生を。

飲み屋で「年齢なんてただの記号だ」とくだを巻きつつ、真にそう考えているのであれば、そんなことを口に出したりはしないのだ、とも心のうちで思っている。
その「記号」が意味、ならびに価値を持つと身に沁みてわかっているから、単なる「記号の変化」に僕はこれほどにも心を動かされるのではないかと思う。

人生を70年と定義するなら、今がまさに折り返し、その折り返しにこのおじさんは何を思うのか。

まっさきに頭に浮かんだのは「退屈」という二文字であった。
「35歳になったから」というと語弊がある。
いつからだったかは忘れたが、ここ2~3年、現在のルーチンとも言える生活が安定してからこれまで、言うのがより正確だろうか。特に、35という数字を手に入れてからの僕は、心に大きな洞を抱えてしまったかのうように、欲求はうつろで、思考は空虚だ。

「おじさんになると昔を懐かしむようになる」という定説は、(誠に残念ながら(悔しいかな))僕にもやはり当てはまるようだ。

今の僕の心理状態を一言で言い表すならば、「情熱が枯渇している」といった感じだ。

興味、意欲、関心、それを失ってしまったなら、人間にそれ以上の成長はないと、僕は思う。
これはあくまでも僕の個人的な意見であるので、そうは思わない人はそのままで。

あれが欲しい。
あれを知りたい。
ああなりたい。
あんな生活が送りたい。

10年も前であれば、感情の起伏の乏しい僕でさえも、そういう欲求に満ち満ちていたように思う。
それとも、この感情すらも、「若いころはよかった」の一端なのであろうか。
そうであって、結局のところ真実を暴くことが不可能ならば、これ以上考えることに意味はないのだが、そうではないと信じてこのまま続けたいと思う。

僕の情熱はどこへ行ってしまったのだろう。

先日、ゲイバーに居合わせたアイドルオタクの青年は、推しのライブに駆けつけて5万字のライブレポを書いたらしい。

僕も、彼くらいの頃、息をするように、キーボードを叩き続けていた記憶がある。それも毎日、休むことなく。
今になって思えば、「どんな刺激的な生活を送っていれば、そんなに毎日書くことがあるのか」と思うのだが、その頃であっても、僕の日常にそうそう刺激的なことなど起きてはいなかったのだ。
ただただ、書きつけたい、いや、書き殴りたいという欲求が、僕の心を突き動かしていたのだと思う。

それが今やどうだ。

カフェでタブレットを開いて、そうしようと思って買った少々お高めのBluetoothキーボードを接続したところで「何を書こうか」と思ったまま指が全然進まないのである。

それは何故か? 僕にはもう「書きたいこと」なんてないからだ。
もっと言えば、「書くべきこと」がわからないからだ。

表現したいという欲求も、知りえた知識をまとめたいという欲求も、あの頃僕を突き動かしていた欲求が、どこか遠く、僕の知りえぬところへ消え失せてしまった。

特別な思い入れもないくせに知ったかぶりで書いた批判的な記事もあったし、独断と偏見で世間を切っているような気になっていたSNSの投稿もあった。若気の至りといえばそれまでである。しかし、それらの(問題)行動が、すべて「若さ」を原動力にしていたというのであれば、35歳になった僕にはもうすでにその「原動力」は失われたと言っても過言ではない。
あの頃僕を突き動かしてくれていた欲求はどこへ行ってしまったのか? 推測でしかないが、それはおそらく「過去」に置いてきてしまったのではないかと思う。

人は連続した時間を生きている。一秒前の自分と一秒後の自分が別人だとは言わないが、10年前の自分と10年後の自分が同じ人間だろうかと考えると、疑念を抱かずにはいられない。

10年前の僕の思想を、今の僕は覚えてすらいない。
おおまかに、「何かに夢中であった」ということしか、わからない。

ただ、こう振り返って、失いたくないものを失ってしまったという喪失感は、ありありと感じる。

恥も外聞もあったものではないが、僕はあきらかに思うのだ。
あの頃の情熱を取り戻したいと。
しかし、時間は前には進まず、35歳の僕はどう頑張ったところで20歳の僕には戻れない。
「取り戻したい」という表現が適切でなければ言い換えよう。
もう一度夢中になりたい。

真剣に欲しがって。
真剣に知りたがって。
真剣になりたがって。
憧れたならば手に入るまで突き詰める。

過去に失った情熱は、たぶん、過去にしかなかったもので、現在で失われたものに思いを馳せることは懐古以外のなにものでもない。
時間は遡及しない。それがわかっていて、過去にあったらしきものを手に入れようと考えるのは、意味のないことだ。
過去の僕が持っていたものを取り戻そうと考えるのは愚かだ。

僕という乗り物は老朽化している。
あの頃の情熱は、あの頃の僕のものであって、現在の僕が使いこなすには手に余るし、似合わないし、尖りすぎている。

だから、考えかたを変えよう。

取り戻すのではなく、新たに注ぎ込む、と。
世界は世界で時代を経たし、僕も僕で時代を経た。
そのあいだ、紆余曲折はあったものの、僕の生活はありがたいことに安定していて、飢えることも凍えることもなく、大きな事故・事件に巻き込まれることもなく、家族、友人にも恵まれ、ゆるりとしたしあわせを享受することができた。
どんなに自己批判をしたところ、それが悪いことであるとは到底僕には思えない。

20歳の頃の僕が、今の僕を見たら「そんなの似合わない」とは思うかもしれないが。
一応、今の僕がそれなりに必死になって手に入れた安定でもある。
過去の、しかも今やどこにも存在しない、尖っていただけの若造に何を思われようと、痛いとも痒いとも思わない。

問題は、今の僕が、少なからず「自分を変えたい」と考えていることである。

もしかしたら30歳になったときも同じことを考えていて、人生を60年とした場合……なんて語りをしていたかもしれないが、もしそうであったとするならば、それからの5年は安定・維持に努め、しっかり役目を果たしたと考えて、それはそれでよしとしよう。

いっぱしのおじさんになった僕は、これから何に情熱を燃やして生きていけばよいのか。
何に情熱を滾らせることができるのか。
そもそも、新しい「情熱」なんてものが、この頭に、脳に、宿ることがあるのか。

「自分が信じてやらなければ、誰が信じてくれるんだ!」なんて、少年漫画のセリフのようだが、僕は僕をまったくもって信用できないので、以降、僕が僕に今一度情熱を宿すことができるのかを考えるにつけては、甚だ疑問で、このままの「安定しているだけのつまらない日常が一生続くのではないか」という不安を禁じ得ない。

若者にはわからんだろうが、おじさんだって不安なのだ。
おじさんだっておじさんなりに自己実現欲求というものを抱えているのだ。

しかし、「あの頃感じたはずの全能感」は二度と得ることができないということもわかっている。
年を取って、足ることを知って、多少なりともずる賢くなった大人は、容易に「今なら何でもできる気がする」とは思えないのだ。
長生きをすればするほど「なんにもできない」という無力感に打ちひしがれることのほうが多くなってくるのだろう。
そうなったときに、立ち直るきっかけをくれるのが、おそらく「情熱」なのではないかと僕は思うのだ。

繰り返しになるが、過去に失ってしまった情熱を取り戻すことはできない。
今の僕の人生に、過去の情熱を宿すことはできない。
できるとするなら、新たな情熱を注ぐことくらいだ。

僕が感じていた漠然とした不安は、「不可能である」という結論に至ってしまった。
しかし、これからどうすればいいかの解を得ることもできた。
方法はわからない。
おじさんになって、感度の鈍った僕の食指が今何に対して反応を示すのかも、自分のことなのに、全然わからない。

夢中になれることがある人からしたら、何を悩んでいるのか理解に苦しむかもしれない。
「何を悩む必要があるんだ、やりたいことをやりたいようにやればいい」と。

そう言われたと仮定して、さらに僕は返したい。
「あなたのように自分のやりたいことが自分で判然とわかっている人間が世の中にどれだけいると思う?」と。

この際だから言ってしまおう。
やりたいことなんかないんだよ。
それでも日々を生きているんだ。
仕事をして、給与を得て、食事をして、寝て、また仕事に行くんだ。
やりたいことができている人なんて本当に少ないんだ。
やりがい? そんな稀有なものを日常の中で見いだせたとしたなら、そいつはとんだラッキーマンだよ。
そうしてそのうち、自分がやりたいことがなんだったのかさえわからなくなるんだよ。

本当に愚痴でしかないのだけれど。

僕はまだ悩む。
いくつになっても悩むのかなあ。
それはいやだなあ。

考えのはざまに落ち込んで、何にもケリをつけられないまま、ああでもないこうでもないと叫びながら生きていくのかなあ。

しかし、それはそれで、ある種、情熱的であるようにも思う。