遠浅の海、羊の群れ。

羊の群れは、きまって遠くの向こう岸で、べえやべえやとわなないている。

キャベツ畑で歌わせて(1)

「チームでね、あなたの声がうるさくて集中できないって、クレームが出てるの」

マネージャーは半笑いのまま私にそう告げた。

「話がある」と応接ブースに呼び出されたときは、ついに何かやらかしたかと肝が冷えた。冷えたが、話の内情がわかって、わたしの感情は前にも後ろにも動けなくなった。

 

幼い頃からわたしの声は大きく、なぜだか遠くまでよく通った。

何か行動を起こすたびに、いちいち独り言が漏れてしまうのも子供の頃からの癖だ。今回はそれが悪癖として指摘された。課長の表情と口調を振り返ると、心象的には「非難された」と言ったほうがしっくりくる。あくまでも、”わたしの側”からすれば、だが。

 

わたしは田舎の出身で、実家の裏には叔父が経営するキャベツ畑が広がっていた。

のちにその畑は宅地に拓かれ、兄夫婦の家が建つのだが、高校を卒業してすぐに実家を出しまった私にとっては、兄嫁の趣味であろう新築一戸建ての白壁より、行儀のいいアマガエルが並んで座っているようなあのキャベツ畑のほうが、茶色い土と緑の連なりと、その上に果てしなく広がる青い空のほうが、今でも、私の心のやさしいところにふさわしく飾られている。

わたしはピアノを弾いて歌うのが好きな子どもで、その頃、わたしの周囲に「近所迷惑」という言葉はなかった。

母は音痴だったが、歌うのが好きな人で、台所からはいつも調子の外れた元気のいい歌声が聞こえた。父は大学時代ブラスバンド部に所属していて、ひどい雨の日には自室でクラリネットを吹いていた。

わたしをはじめて「うるさい」と断じたのは兄だ。

わたしは小学生で、兄は高校二年だった。その日、兄は部屋に友人を連れ込んで(女の子もいたと思う)ロックバンドのCDを聞いていたらしい。

兄は年相応それなりにグレていて、兄の友人の髪の毛はたいてい幼稚園の砂場のような色をしていた。

兄は「染めたのではなくブリーチをしたのだ」と何度か訂正したが、小学生の私にその違いはわからなかったし、なぜ黒い髪をわざわざ砂色にしたがるのかもまたわからなかった。

わたしはきちんとヘッドホンをして電子ピアノを弾いていた。隣の部屋から兄と兄の友人たちの声が聞こえたので、いつものようにおおらかに弾いて歌うのは少し気が引けたのだ。誰もがわたしに優しいわけではない。ませていたわけではないが、そのくらいの分別は既に付いていた。あの人たち早く帰らないかなと思いながら、鍵盤を叩いて、声は潜めていた。

わたしのピアノの先生は、早いうちからわたしに作曲についてのあれこれを教えてくれた。

わたしは覚えたての「和音」という魔法に夢中で、三つの音に四つ目の音を添えるとオシャレにな感じがするだとか、五つ目の音をハミングで載せると不思議な雰囲気が生まれるだとか、とにかく、そういう、音が重なる現象に夢見心地だった。

そうして、偶然にメロディーが生まれた瞬間には、「わたしは何かを創ることができる」という子どもながらの全能感を味わっていた。

そんなときだ、わたしのヘッドホンを乱暴に取り上げて、兄がわたしを叱りつけたのは。

兄はわたしのヘッドホンを畳敷きの床に投げ捨てて、もう一度「うるせえよ」と怒鳴った。黒いヘッドホンと一緒に、黒いケーブルと、銀色の端子が宙を舞ったのが見えた。

聴かれるのが恥ずかしいという理由でヘッドホンを着けていたはずなのに、そのヘッドホンのジャックが電子ピアノ本体に刺さっていなかったのだ。

自分の部屋から何度かわたしに「うるさいからやめろ」と叫んでいたのだろう。

友人の手前、おかしな家族がいるとは思われたくなかったはずだ。

わたしは再三に及ぶ警告を無視して、しかも、結局、大きな声で歌ってしまっていたらしい。

密閉型のヘッドホンをしていたせいで、ピアノの音も、兄の声も、自分の声も、ことごとく性能の良い消音効果のもと、私自身にはほとんど返ってきていなかったのだ。

すぐそこでサイレンが鳴り続けているのに、アクセルを吹かすのをやめようとしない、かつ、とてつもなくハイなのに、本人自身ハイであることに気付いていない。誰かを攻撃するつもりなんてかけらもないのに。誰かの邪魔をしようなんて思いついてもいないのに。わたしは無自覚で、無意識で、誰が見ても、明らかに、邪魔者だった。

状況がわかっても、ショックで謝罪の言葉も述べられないまま、わたしは呆然としていた。わたしは、わたしが「無自覚でうるさい人間」なのだと思い知らされて、その愚かしさゆえに、恥ずかしさゆえに、この世界から消えてしまいたいと思った。こんな状況に追い込んだ兄も、遠因となる兄の友人も、巻き添えにして消してしまいたいと思った。

ここが海なら今すぐ海底まで沈んでいくのに。ピアノもヘッドホンも兄も兄の友人も、もろともに沈めてしまうのに。

恥ずかしさに絶望し、訳も分からず、自分を含んですべてが憎く、自分を含めたすべてに対してじんじんと真っ赤な怒りを覚えた。いちどきに形容しがたいこのような感情をじっくりと味わわされたのは、このときが初めてだった。

それは後年、しっかりとわたしのトラウマになった。

あのとき私の心に発露した形容しがたい感情を、努力をしてなんとか端的に言おうとするならば、「恥辱に震える」という言いようがたぶん一番近い。自分自身で失態の原因を作り出しておいて、それに気付かず、気づいた瞬間、やっと、「これは恥辱だ!」と叫んで怒りに震えるような、まるで非常事態である。我ながらとんでもなく間抜けだ。ひどくばかで、かわいそうなやつだ。哀れみさえ感じる。

この日、わたしがショックのあまり家を飛び出さなかったのは、まだ自転車の補助輪が取れていなかったのと、わたしの家から歩いて行けるようなところには、学校か祖母の家か、キャベツ畑くらいしかないことを、無知なわたしでも一応は知っていたからだと思う。