遠浅の海、羊の群れ。

羊の群れは、きまって遠くの向こう岸で、べえやべえやとわなないている。

眠たくない

長いこと不眠症を患っているせいか、夜中に熱中して活動することに強い抵抗感がある。

自分が不眠症であると自覚するまでは、僕にとって夜は様々に全能感をもたらしてくれる存在であった。

持てる能力のすべてにデバフがかかる、みたいな。

「夜」という環境ひとつで、自分の「できること」が数倍に膨れ上がるような感覚を抱いていた。

昼間にだらだらと働いて、夜に本当のスイッチが入って、明け方気絶するように眠りに落ちる。10代後半から20代半ばまで、僕はそんな毎日を送っていた。

もちろん、しわ寄せは昼間の自分が引き受けるしかない。

明け方気絶するように眠るといっても、数時間後には起きて仕事に行かねばならないから、結果ほとんど眠れてなんかいない。

眠たいけれど眠れない。頭は痛いし、冷や汗は出るし、心臓の音がやけに早い。

僕はすっかり眠ることが苦手になってしまっていた。

心療内科睡眠薬を処方されるようになってから、睡眠に対する苦手意識はさらに強くなった。

自然に眠りに就くとはどんな状態であったか、もうそんなのは昔のことすぎて思い出せない。

それからずっと、入眠時の睡眠薬を心の支えとしている。

大好きだった夜との向き合い方が変わってしまったのもその頃だ。

夜は、静かで孤独で、突き詰めて物事を考えるにはもっとも適した時間帯だと思う。

翻って、昼間の喧騒の中では、僕はもっとも無能な人間になるように思う。

もとより無能なのにもかかわらず、余計に、という意味で。

そうして、「自然な眠り」に対しては、僕は憧れのような気持ちを抱くようになっていった。

僕は、人が眠りに落ちる瞬間を見るのが好きだ。

旅行なんかで誰かの眠りに居合わせたとき、意識が途切れる瞬間を目の当たりにすると、僕はそこに、神秘性を感じる。本来、生き物ならば全員が持っているはずの、眠りという能力の発現に、なにか崇高なものを見たような気になる。

さっきまで目を開けていた人が、数分後に寝息を立て始める。その一部始終に居合わせると、羨ましい気持ちになる。同時に、取り残されてじれったいような気持ちにもなる。

できることならば、僕が先に寝たい。

寝入ることに困難もせず、途中で起きることもなく、夜から朝まできっちりと、意識を手放してしまいたい。

たまに「どこでもいつでも眠れる」と自信げに語る人に会うと、心底羨ましく思う。

もしも、その能力が確実に手に入るセミナーがあるのなら、そこそこの金額でも期間でも惜しみなく申し込むはずだ。

「眠らなければならない」という呪いにも似た思いのもと、夜は、全能の空間から、苦痛の牢獄へと姿を変えた。

根っこにあるのは僕自身の意識の変容なのだけれど、今さら「眠らなくても生きていける」とも思えないし、睡眠薬を手放すのは恐ろしい。

 

今、病気をして少し仕事を休ませてもらっているのだが、ちょっとした発見があった。

僕は睡眠薬を常用しても、それでもうまく眠れずに、常々睡眠不足の状態であった。

もともと趣味の少ないほうなので、休みとなっても、どう休んでいいかわからない。

はじめのうちは、サブスクでドラマを見たりしていたのだが、早々にやることがなくなった。

暇を持て余して、狭い1Kアパートのキッチンと居室をうろうろしていたとき、時間に復讐をしてやろうと思った。

仕事もない、予定もない、新型コロナはあるし、人と会う約束もなかなかできない。

これは、休んでみてはじめてわかったちょっとした発見だったのが、変則的な睡眠周期を取ると、僕でも8時間以上眠れることがわかった。

まず、夜は疲れたら寝る。だいたい2時から3時くらいに体が疲れて頭がもやもやしてくるので、このときに睡眠薬を飲んで横になる。長年愛用している睡眠薬は既に体に耐性ができているらしく、6時には目が覚める。ここでちゃちゃっと朝食を食べる。おにぎりとか、パンとか、数秒で口に詰め込めるものがいい。ここで「朝食後服用」する薬を飲んでしまう(毎日だいたい同じ時間に飲めとのことなので)。そして、ベッドに戻ってもう一度眠る。すぐには寝付けないのだが、ぐずぐずしているといつの間にか眠れている。今まで試したことがなかったのでわからなかったのだが、まだこの時間は睡眠薬が効いていのだろうと思う。そうすると、次に目が覚めるのはだいたい昼の10時〜11時くらいだ。

朝には出かけなければならない人の生活ぶりと比べたら、かなり変則的なのだろうと思うのだが、この時間帯に寝るようになって、日中の眠気がまったくなくなった。

ただ、日中の眠気がなくなったぶん、「暇だな」と思う気持ちも強くなった。

睡眠に満足するなんて、ここ十数年なかったことなので、この感覚は果てしなく嬉しい。

食べ物の好みが人それぞれであるように、睡眠時間も人それぞれに合う合わないがあるというのも、なるほどわかる話だ。

なんて、本当は何も気にしないで、毎日同じ時間に眠くなって、毎日同じ時間に起きて、睡眠時間が時間帯がなんて気にしないで日々を送れるようになったら一番いいのだけれど。

そのうえで、いつぞやの夜に感じる情熱や意欲を取り戻すことができたなら、もっといい。

眠りについては、まだまだ試行錯誤が必要だと思う。