三七度五分は完璧に標準的な微熱の温度だ。
おとといから三七度をちょっと超える微熱が続いていて、今朝ついにダウンしてしまった。
週のはじめに上司から「仕事中の独り言が多く、周囲が迷惑しているから気を付けるように」とのお達しを受けてから、「だったらもう何も語るまい」との反抗心が芽生え、職場ではマスクを着けて常にむっつりとした表情でいた。
今朝、息も絶え絶えに上司に電話で発熱していることを告げると「少し前から具合悪そうだったものね」と言われた。
「あなたの仕事ぶり邪魔なのよね」という指摘に対抗して、無言イライラ感を演出していたのだが、結果的にそれが「体調不良の前兆であった」と捉えられてしまったようだ。
人がどう思おうが勝手だが、たぶん私のこの上長は、自分が部下の独り言を半笑いで注意したことなどとうに忘れてしまっているのだろう。
私の「これまでより静かになった」は、「思いがけない指摘に腹を立てて反抗している」ではなく、単に「元気がない」と認識されてしまっていたのだ。
なんとなく、おもしろくない。
だからといって「あれは、あなたの指摘に私が腹を立てた反抗の現れであって、体調が悪いことの表出ではありません」と説明することにはなんの意義も見いだせなかった。
月曜に注意を受けて、三日かけてじっくりと体調を崩し、四日目に会社を休んだ。
人の頭の中は読めないし、制御できない。言わなければ伝わらないし、言ったところで伝わらないことも多い。
言葉を用いず、態度でもって伝わるだろうと対峙した私のやり方は、その時点で敗北を喫していたのだ。
家を出る時間になっても立ち上がることができず、なんとか会社に電話をかけ、今日一日は自宅療養ということになった。
偶然だが、今日締め切りの仕事がなかったことは幸いだった。
電話の中で、あれをやらなければこれをやらなければと話した気もするのだが、”注意に対する反抗”が全然、まったく伝わっていなかったことばかりが気になり、ほかに何を話したかよく覚えていない。おおかた、熱で前後不覚だったのだが、私の”注意に対する反抗”は、誰にも伝わっていなかったということだけは、はっきりと認識できた。
私は独り言が多いし声がよく通る。が、誰かの邪魔をしようと思ってそう暮らしているわけではない。だから、普段通りに過ごしているつもりで、突如として「うるさい」と断罪されると、ショックを禁じ得ない。
だから、「あなたの発言は正しいのだろうが、少なからず私を傷つけた」ということは、やっぱり気付いてほしかった。
朝食をなんとか飲み下し、買い置きの感冒薬を飲みつつ、そんなこと反芻した。
態度や、行動だけでは、細かな心の機微までは伝わらず、結果誤解を生じることがあるから、人は言葉を発達させたのかもしれない。
「伝わるだろう」という構えは、相手を買いかぶっていたにすぎない。
しかし、あのとき、私は確かに傷ついたので、今の職場で今まで通りのやり方で仕事をすることはないだろうと思う。
ここで言う今まで通りのやり方とは、「指さし確認」のようなものだ。
事務仕事なのだが、私は物事を言葉にして確認する癖がある。失敗に気付いたときには、「間違った」と言う言葉が、口から零れて出てしまう。
独り言を禁じられて、いわゆる「作業進捗の言語化」を禁じられて、代わりにわたしのため息と舌打ちは極端に増えた。
そんな人の近くは雰囲気が悪いので、あまり一緒に仕事をしたくないだろうと思うが、独り言と舌打ちとを比べて、どちらがましかと言ったら、舌打ちなのだろうと思う。
特に、周囲の言葉や、雑音に影響を受けやすい人は、意味を持った言葉に気持ちを動かされやすい。
もともと静かな職場なので、私の声はことさら目立ってしまっていたのだと思う。
冷えピタをおでこに貼って、保冷剤をタオルに巻いて首に当てた。
体温が一度上がると人はさまざまな不調を体感するという。
一週間前だったが、同居人が咳をしていたのを思い出した。
咳エチケットなんて言葉知らないような暮らしぶりの人間だから、彼の咳の飛沫をわたしは見事に顔面でキャッチしていた。
ウイルスなのか菌なのか、もとをただすことは難しいが、どこかから風邪の種をもらってきてしまって、もしかしたらそのもとは同居人から発生していた可能性が高い、というだけのことなのだが、体調不良の原因を誰かに求めたところで、快方が早まるわけではないので不毛だ。
どんな重篤な病気であれ「うつした」「うつされた」の相手方が誰かを突き止めることにどれだけの意味があるのかわらない。
しっかりと休養を取れば、二、三日で元通りになる風邪だ。認知のためのDNA検査でもあるまいし、誰にうつされたのかを考えている時間があるのなら、その時間を療養に当てたほうが得策である。
だんだんと体調を崩してはいたのだが、運よく作り置きの料理が冷蔵庫にたんまりと眠っていた。ごはんもラップでくるんで冷凍してあるし、2リットルペットボトルの麦茶も買い置きがあった。
スーパーの安売りで買ったひき肉と鶏肉が期限だったので、それぞれ、ハンバーグとキーマカレー、チンジャオロース(風、鶏肉なので)、すきやき煮(風、鶏肉なので)をタッパーでこれでもかと作っていた。
昨日、おとといはこれらの調理にあたっていたわけだが、予定調和とでもいうべき発熱である。
昨日とおとといにタイミングよく作り置きのおかずと冷凍ごはんをこしらえていたことで、ひとりぼっちの病床なのに、三食いつもりよりしっかりと栄養を取った気すらする。
朝から昼過ぎまで一寝して、たまっていた洗濯物を片付けた。
感冒薬を飲んでも、少しのあいだ症状が緩和するだけで、微熱は三十七度五分のままいっこうに下がる気配がないのだが、体を動かせないほどの倦怠感ではない。
昼食にキーマカレーをかっこんでまた薬を飲み、まら少し寝て、夜にチンジャオロース(風、鶏肉なので)を食べて、キッチンにたまっていた洗い物をすべて片づけた。
食べて寝て家事をして、食べて寝て家事をして、肩を息を弾ませながらも、具合が悪い時というのはまだまだと眠れてしまうから不思議だ。
体が休息を求めていて、意識がそれに答えてまどろむのだろう。
眠り自体は浅いので、変な夢を見る。
自分は駆け出しのお笑い芸人で、何かの舞台の袖でカルビーのCMを依頼されるのだが、これからテレビスポットで流れる番組のスポンサーがカルビーだったか湖池屋だったかわからず、即答できない、という夢を見た。
お笑い芸人にも憧れていないし、ポテトチップスを食べることも滅多にないのだが、何故こんな夢を見たのだろうか。私の深層心理がお笑いとポテトチップスを求めているのだろうか。これを突き詰めることも、また、不毛なのか。
考えることはすべからく不毛で、食事と家事と睡眠だけが有意義なのか。
病気療養の一日などそんなものなのだろう。
しかし、”思考”は、社会性を求められる人間に残された数少ない娯楽のひとつである、と私は思う。
労働をして、賃金を得て、暮らす。それだけが人生のすべてだなんて絶対に思いたくない。
それは人生の基盤の部分であり、それらの上には、恋や、遊びや、趣味や、娯楽がふんわりと浮かんでいるものだと思う。
体力的に自由が利かなくなった今日の私に、道具も場所も構わず行える娯楽は思考だけだったのだ。だから、「あの人本当はどう思っていたんだろう」とか「どうしてこんな夢を見たんだろう」とか、一見不毛に思えることを、ぼんやりと、ただただぼんやりと、毛布にくるまって考えていたのだ。
その考えの方向や、結論は、まったく理性的ではなく、突拍子もないものばかりなのだが、この部屋にはわたし以外の誰もいないし、どんなことを考えていようが、誰も頭の中のお遊びまでを咎めることはできない。
わたしは、深夜に帰宅する同居人のために握り飯をこしらえながら、誰かに腹を立てたり、実現性のない未来を思い描いたりすることも、当然に自由なのだなと考えていた。
結局、一日かけても私の体温は三分しか下がらず、微熱は続いたままだ。
きっと、感冒薬の解熱作用が弱いのである。そう思って薬の箱を見ると、漢方主体の、風邪の引き始めに対応した薬だった。もしかしたら、今日服薬すべきはこれではなかったのかもしれないと、今更ながらに思った。
元気で一日家に留まっているのはつらい。何か損をした気になるし、どこかへ飛んでいきたい気持ちになる。友達と会っておしゃべりがしたくなる。外で酒が飲みたくなる。
比較して、病気で一日家に留まっているのはつらくない。それが当たり前で、回復するまでは最善の方策だと、わたしでも理解できているから。
たまに起こす体調不良は、体の作用を弱体化して、思考の自由を思い出させてくれる、そういうタイミングなのかもしれない。
それが何日も続いてしまうと、そんな日々にはすぐに嫌気が差してしまうのだろうが、今日くらいの療養ならちょうどいい。
贅沢を言うなら、子どもの頃のように、誰かがごはんも服も用意して、自分は寝ているだけでいいのだとしたら、そっちのほうがずっといい。
せっかく同居人がいるのだ。それくらいしてくれてもよさそうなものだが、まあ、あの人だって忙しい。
わたしと同じように仕事があるし、わたしも、あの人が風邪を引いて寝込んだくらいでは、自分の仕事は休まない。
自分の面倒は自分で看る。すこし寂しい考え方のような気もするが、現代社会に生きるひとりの大人としては当然の覚悟であろうと思う。
それに戦っているのは、わたしの体の中の免疫細胞たちであって、わたし自身に「今、戦っているぞ!」という自覚はない。
私にできることは、彼ら免疫くんたちが縦横無尽に活躍できるよう、戦場を整備してやることくらいだ。具体的に言うと、栄養を取ってよく眠るという行動に尽きる。
こうして今日が終わってしまった。
冷えピタは三枚めだし、保冷剤は冷凍庫のストックがなくなって二周した。
機械のように修理一回で元通りが理想的だが、今回のわたしのように、不調の治し方がわかっているのは全然ましである。
単純だが、たくさん食べて安静にしているという普段できない「何もしない」贅沢が、弱っているからだには一番のごちそうなのであろう。
体がつらいぶん、暇を持て余す感覚もない。
息を吸って吐いて、寝返りを打ったり、体がつらいとそれだけでも何かをしている気になる。
日付をまたいだ今となっても、朝と同じような微熱が続いているのだが、明日の朝になればいい加減元通りになっているものと思う。
一日終わって、今日という日をなんだかんだ楽しんでしまったわたしは、そこそこの楽天家であると思う。
昼間、ぞんぶんに寝てしまったので、これからまた眠れるのかどうか少し不安だが、そろそろいい時間なので、もう一度布団に戻ろうと思う。
元気であるということは、人にとってとても大事なことであると実感した今日であった。