遠浅の海、羊の群れ。

羊の群れは、きまって遠くの向こう岸で、べえやべえやとわなないている。

投票行って外食するんだ

2019年7月21日、参議議員選挙投票日である。

「選挙があるなあ」と思ったのはどのくらい前だっただろうか。Twitterに流れてくる「若者が選挙に行けば日本は変わる」、「若者が選挙に行っても日本は変わらない」みたいなやりとりをぼんやりと眺めているうちに、いつの間にか当日を迎えてしまった。

 

出勤時の駅前で、演説をする立候補者、握手を求める有権者、休日に出かけた新宿では「二枚目の紙にはわたしの名前を書いてください」という声をまき散らす街宣車に3台行き当たった。比例代表投票は全国区のため、支持政党名か、候補者名のいずれかを記入することとなる。

だから、自分の選挙区ではないところの、人が多く集まるところまで出張ってきて、「二枚目には」という演説は、まあちょっと考えなくても自然な流れなんだろうと思う。

 

高齢者の投票率が高いため、国が高齢者贔屓の政策をする。若者が投票に行けば、若者が得をする政策に転換するのではないか。いいや、たとえ若者が全員選挙に行ったとしても、今日では若者の総数よりも高齢者の投票率のほうが高いのだ、方向転換はない、やるだけ無駄だ。しかし、若者の投票率を上げることで、当落線上の候補者は若者の意見を無視できなくなる。これだけの数の「意見」があると示すことで、国は若者を無視して政策を進められなくなる。

 

そんなことを、若者が若者に説明していた。若い男が三人と若い女が一人、閉店したマッサージ店の軒下で、急な雨を凌いでいた。

結局、選挙に行ったところで、俺たちの数のほうが少ないんだったら、老人が得することばっかやるってことじゃないすか。数じゃ負けてるんですよね。

そうだけど、投票するか、しないかっていうのは、いるか、いないかを示すことになるの、投票数が低いってことは、いないものとして考えられちゃうの、これだけの若者がいて、若者が苦しくならない国にしてって意見がこれだけあるってわかって、それが全部与党以外に流れたらって考えたら、若者の意見だって無視できなくなるでしょ。

わたしは折り畳みの傘を鞄から取り出し、その場をゆっくりと通り過ぎた。

結果、聞き耳を立てた形になってしまったが、女の子一人が先輩で、男の子三人は後輩、大学のサークルか、アルバイト仲間のようだ。

 

たしかに、与えられた権利を行使しない者はそれだけで損をしていると思うし、そういう者が多ければ多いほど、「誰」が「何」を望んでいるのが不明瞭な選挙結果になるのであろうと思う。

「こんな国どうなってもかまわない」と嘯いて「選挙に行っても何も変わらない」と投票所へ赴かないという人間が増えたなら、日本は「選挙にちゃんと行く人」のためだけの国になってしまうだろう。

だって、そういうシステムなんだもの、それはそれで仕方ない。しかし、「行かない人が悪い」では済まないのがこのシステムのつらいところだ。

本当は国の政策に一言申したいことがあるのに、普段は「なんで年寄りばっかり」、「年金はどうなるんだ」と言っているくせに、なぜ、選挙となると及び腰になってしまうのだ。

と、つい語気を荒立ててしまうのは、我が家の机の上に同居人の投票整理券が入った封筒が未開封のまま放置されているから、というのもある。

前回の区議会議員選挙のとき、「忙しいなら期日前投票に行けばいい」と促したのだが、「そういうの行ったことないんだよね」と切り捨てられてしまった。

選挙に行かないのも自由である。しかし、そのような考え方が、「もっと自分たちの世代も暮らしやすい国にしてほしい」という同世代の多くの切なる願いの足を引っ張っているという現実には、どうやっても気付けないらしい。

 

おそらく彼とわたしでは年の差もあるし、考え方も違うので、真面目に支持政党だ政策だという話をしたら、全然違う考え方がわかるのかもしれないが、そんな話をしたこともない。

(それよりもなによりもなによりも仕事が多忙すぎるのがよくないのだ、今週終電で帰れたのが三日だけだぞ、そのおかげで支持政党を変えて「ブラック企業をぶっ潰す」と息巻いている候補者に投票しそうになったじゃないか)。

 

選挙に行くか行かないかは「偉いか偉くないか」ではなく、「権利を行使したかしなかったか」だ。与えられた権利を、自分の思想の主張のために、使えたかどうか。

賛同する意見の人間が多ければ、投票した候補者は当選し、国の政策に少なからず影響を与え行くことになる。

全員が投票して結果が出るなら、その選挙の結果にも納得ができる。しかし、(これは本当に毎度毎度思うことなのだが)選挙に行っていない人のほうが多いのに、「この人が代表者です」と選ばれてしまったとき、本当にこれでいいのかと思ってしまう。投票していない人の意見はどこにあるのだろうか、と。投票率が高い支持層を持っている候補者が、政党が、結局は強いのかと。わたしもまだ三十代なので、どちらかというと若者層に入るのだが、その投票率を目撃するたびに、「選挙」というシステムに馬鹿にされているような気持ちにもなる。

だが、選挙権も十八歳からに拡大され、若者の中でも、「選挙に行こう」と声を掛け合う姿が目に見えて増えるようになった。わたしはそういうのを見つけるたびに「しめしめ」とか「いいぞもっとやれ」と思うわけだが、さすがに一気に「二十代、三十代の投票率90%」などとなるのは難しいとも思う。

 

法律でも、政治でも、企業でも、仕事でもそうだが、ルールを作った人が強いのは当たり前だ。だから、そのルールが特別に不公平、不平等なものでない限りは、ルールのシステムを理解して、ルールを作った人たちよりも賢く、勝つための攻略法を考える必要がある。

 

若者が高齢者に勝つために、若者の投票率UPは必須条件なのだ。

その先に、どの政党を支持するか、誰を支持するかなんて人それぞれの思想や信条、選択の個性がやっと生まれてくる。

 

かくいうわたしも、比例代表は投票所に行って、投票用紙を目の前にしてから、少し悩んだ。もちろん、最終二つにまでは絞り込んでから現場に向かったのだが、比例代表でならこの人は自分が投票しなかったとしても当選するだろうし、とか、自分が持っているたったの一票について、どう生かせばもっとも悔いが残らないかを、最後の最後まで考えてしまった。混んでなかったのでまあ許されるが、混み入った時間であったらかなり迷惑だったと思う。

 

「行かなきゃな」から始まり、「誰かな、どこかな」に続き、「こんなもんか」で終わる投票。行ったら行ったで、選挙速報を見ることにも楽しみが生まれるので、二次的娯楽を生み出している感もまあまある気がする。

 

投票、というとモーニング娘。の「選挙の日って、ウチじゃ決まって、投票行って外食するんだ」という家族像への憧れを禁じ得ない平成世代ど真ん中のわたしである。

残念ながら、一緒に投票に行くはずの同居人は選挙自体にほとんど興味がなく(これがもしも出身地の選挙だったら行っていたのだろうか)、投票行ったからといって外食する相手もおらず、一人で外食する気持ちももちろん起こらず、今や自宅でPCに向かっているという状況だ。

 

いつか、家族と、投票行って外食がしてみたい。

これはわたしのささやかな、ごくごくささやかな夢の一つである。