遠浅の海、羊の群れ。

羊の群れは、きまって遠くの向こう岸で、べえやべえやとわなないている。

キャベツ畑で歌わせて(2)

わたしはその後、小学校、中学校、高校と「うるさい」ことで何度か指摘を受けた。先生からも、同じクラスの子からも。だって、内緒話ができないのだ。

ささやくような声を「ウイスパーボイス」というのだと、中学に上がってから知ったのだが、女の子たちはみんなそんな感じの声で、こそこそと何かを耳打ちし合っていた。そこにわたしが入ってしまうと、半径10センチメートル以内に留めておきたかった秘めごとが(本当はそんなかわいい内容ではなかった)半径3メートル程度には拡大されてしまう。どんなに声から芯を抜いて、蝶の羽音のように息を漏らしてみたところで、わたしの声はやっぱり通る。衣擦れをイメージして掠れさせてみても、人の耳に突き刺さってしまうらしい。思春期真っ盛りの頃には、もはやこれは一種の特異体質なのではないかと心底恨めしく思ったものだ。まわりの女の子がグラデーションのかかった薄いピンク色の手書きの丸文字で喋っているとしたら、私の声は新品の黒インクで厚紙に印字されたゴチック体のようである。

危険を示す道路標識が人の目に留まりやすくできているように、構造上、わたしの声は人の耳に留まりやすいようにできているのかもしれない。

反面、学生時代には重宝されることもあった。

遠くまでよく声が届くので、小・中・高と学級委員長を歴任していた。校内で、先生を除いて、「静かにしてください」という言葉をもっとも高い頻度で使っていたのはわたしなんじゃないかとすら思う。

だから、男子からは煙たがられたし、女子からは「いい子ぶって先生の点数稼ぎ」と陰口を叩かれることもあった。でも、そんなのはもう慣れっこだったのだ。わたしはこの学級委員長の責をまっとうすることで、短所は長所にもなりうるということを学んだ。

自分が短所だと思っている部分も、人によっては長所だと認めてくれることがある。

わたしは挨拶が好きだ。その中でも「おはようございます」が一番好きだ。これが気持ちよく決まると、その日一日を楽しく過ごせるような気がしてくる。わたしが「おはようございます」と言って、誰か、たとえば先生が「成川さん、元気があっていいわね」なんて言おうものなら、さっきの「おはようございますの」の二倍の声量で「ありがとうございます」と言っちゃったりなんかする。自分のことを「うるさいやつ」とうじうじ悩んでいたのなんかぶわんと忘れてしまって、有頂天だった。

つまりは、自らの身体的特徴から、失敗体験と成長体験の両方を経験したということになる。

コンプレックスも使いようによっては武器になる、そんな格好つけた言葉はまだ知らなかったが、結果から見れば、わたしはそれを身をもって体験したことになる。

背が低いお笑い芸人が、それをネタに笑いを取っているのをテレビで見て、わたしはシンパシーを禁じえなかった。ともすればバカにされてしまいそうな身体的特徴を、逆に武器にして、みんなを笑顔にしている。素直に格好いいと思ったし、尊敬した。そして、きっとこの人も、背が低いことで悩んだりした経験があるに違いないと、勝手に想像して、わたしも頑張ろうと思った。なにを頑張るのかはわからないが、とにかく何かを頑張ろうと思ったのである。

学生時代にわたしが学んだのは、時と場所を考えるということだ。

シーンには、大きな声を出していいときと、声を潜めなければならないときの二通りがある。わたしには後者ができない。

そうして、たいがい、声を潜めなければならないときは、喋ってはいけないときだ。

たとえば、授業中とか、映画館とか、図書館とか。そういう場で、隣の席に座っている友人に、こそこそ話を強要されたときは、もう仕方がない、付き合うしかない。「そんな大きな声で言わないでよ」と驚かれることを覚悟して、思いきりボリュームのツマミを絞って、対処するしかない。

独り言のほうについてはまるでお手上げだった。出るときには無自覚なのだから、対処のしようがない。

図書館で、さっきまでひそひそ話していた声がスッとやんで、その場にいた人たちの視線の大半がわたしのほうを向くことがあった。一緒にいた友達が、唇に人差し指をあてて「なにがわかったの?」とわたしに囁いた。

そのときわたしは、数学の宿題か何かをやっていたのだと思うのだが、突然「そうかわかった」と嬉しそうに声を上げたのだ。

妙な話だが、そういうとき、私の声はほんの一瞬だけ遅れてわたしの耳に届く。

聞こえる、というよりは、知覚するといったほうがいいかもしれない。

頭の中で呟いていた言葉が、ぽんと表の世界に飛び出してしまうのだ。だから、言ってしまってから、はっとしなって、顔を伏せる。そんなことが何回もあった。

学校では「ちゃんとせねば」と気をつけているぶん、まだ回数は抑えられていたのだが、家に帰るともうだめだ。完全にたがが外れてしまって、自分の部屋で一人でずっとぶつぶつぶつぶつ言っているらしい。「ぶつぶつ」という音も本当はそぐわない。普通に、ぺらぺらと話している。

母親がわたしの部屋の扉をノックしたとき、わたしは無心で漫画本にかじりついていたので、そのノックの音に驚いて「わ」と大声をあげてしまった。

わたしの声に驚いた母親はお盆に乗ったお菓子とジュースを危うく落としそうになって、すんでのところで体勢を立て直した。

わたしが焦って「びっくりさせないでよ」と言うと、「こっちのセリフよ」と返された。わたしの部屋からずっと、楽しそうにお喋りをしている声が聞こえていたので、わたしが友達を家に招いていたのだと思ったらしい。これはさすがに迷惑な話だな、と我ながら思う。

母は、わたしの友達の前で”素敵な母親”を演じようとしたのだろう。そのとき彼女は、わたしが見たことのない、純白のフリルのついたエプロンを着けていた。

わたしが「エプロン、かわいいね」と言うと、母は「もうやだ」と乙女のように恥じらって、階段を駆け下りていった。

しかし、これについてはお互い様だとも思う。

母もわたしと同じか、それ以上に、いかつい独り言を発するからだ。

母はわたしが、世界でただ一人(この時分のわたしの世界は極端に狭い)、わたしに匹敵するか、それ以上の独り言喋りすとであると認めている女性だ。

たとえば、台所で料理をしていて、黒コショウが見当たらないとする。

母親は『黒コショウの歌』を歌いながら(振りつき)、最悪、わたしの部屋まで黒コショウを探しに来る。ひどく楽しげに。

黒コショウさん、どこですか、いたら返事してくださいな、黒コショウさん、わたしを困らせないで、黒コショウさん、どこですか。

メロディーはてんでばらばらだが、失せ物を探すときはいつもこんな感じ。

誰に見せるわけでもない、誰に聞かせるわけでもない、そのくせ全力の歌唱とダンス。

ときにチャーミングに、ときにセクシーに。合いの手も自分で入れて、「ハッ」とか、「イーヤーサーサー」とか、どことなく沖縄民謡にかぶれていたりする。我が母ながら、ユニーク極まりない。

調子が乗ってくると居間を通り越して玄関まで花道にしてしまう母を横目に、父は「今日もお母さんは威勢がいいな」などと言いつつ、リモコンでテレビのボリュームを厳かに上げていくのだ。

この母にして、この子あり。この運命からは逃れられないのだと、日常的に舞い踊る母の姿をこの目に焼き付けて、わたしは思った。

しかし、たとえ逃れられないとしても、この家の中では、自由でい続けていいのだと、わたしに示してくれたのも母だ。

兄は母に対しても「うるせえよ」だったが、あ~らごめんなさ~い、鉄の女は息子の一撃どころじゃびくともしなかった。

母は兄よりも強し。ああなりたいとは思わなかったが、この家の中でなら、ああであってもいいのだと思えた。

わたしは、わたしの体質が故に、ネガティブになって、暗い少女時代を過ごすことはなかった。それは、この母を「これが一般的な家庭の風景」と誤認していたからに違いない。母は偉大だ。しかし音痴だ。

わたしは中学、高校の頃、この母の『実録! うちのお母さん』ネタで、何人もの友人作りに成功している。

「たきちゃん、見てみて、右のおっぱいと、左のおっぱい、ブラジャーが外れてしまったのはどっちでしょうか?(ここでわたしが面倒くさろうに、「右?」と言う」)ぶぶー、正解は、どっちもー(ここで母は服をべろんとめくって両乳房を放り出す)」

女の子だけの猥談で、ここぞというときに繰り出す、わたしの鉄板だった。

そんな偉大なる母と物静かで寛容な父のもと、わたしはすくすくと十人並みの成長を遂げた。

学年が変わっても、クラスが変わっても、友達が変わっても、わたしの声が大きいのと、独り言の悪癖が治ることはなかったが、それでも捻くれずに、どちらかというといっそ生真面目に、わたしはひとしきりの青春を謳歌したのであった。