遠浅の海、羊の群れ。

羊の群れは、きまって遠くの向こう岸で、べえやべえやとわなないている。

随筆というジャンルの奥ゆかしき

久しぶりに紙の本を買った。

文藝春秋』である。

生来読むことが好きなくせに、最近はスマホにばかり時間を取られているなと感じて、タイムイーターに対する反骨精神で、近所の書店を訪れた。

本棚に本が埋まっていない、中学・高校の参考書やなんかをメインに取り扱っている地域の書店だ。

「本屋」といえば、ジュンク堂紀伊国屋にすぐ駆け込んで、絶対に買わないであろうジャンルの階で「本の奥ゆかしさ」に眩暈を覚えること趣味としている僕が、地域の書店を訪れたのだ。

おそらくメンタルの不調でおかしな薬でも飲んでいたのであろう。というか、実際にメンタルの不調で調子を上げる薬を服用していたのだが、まさか、日々店前を通過するだけの本屋さんで本を買うことになろうとは思っていなかった。

目当ての本があったわけではないのだ。

目当てのものがあればアマゾンさんにお願いしてしまうだろうし、本との出会いを楽しみたいのであれば前述の大型書店へ行ってしまう。

小説も、漫画も、雑誌も、参考書も専門書も、売れ筋……というか、売れ筋のものすら取り揃えられていない。

(平積み、選んでないだろ……)

おそらく、おそらくだが、あくまでも僕の想像だが、ここの店主様は、近隣学校への教科図書および参考書の納品で食い扶持は稼げているのではないかと思うのだ。

それに、ドローンがプレゼントを運ぶこの時代に、「わざわざ本屋まで来て紙の本を買うような人間いねーっすよ」という諦めの感情すら見える気がする。

こうして地域の書店はどんどん縮小してい……くという話は別の機会に置いておいて、入ってみてさっそく、さて何を買おうかと悩んだ。

狭い店内だ。小説の棚を見て、ライトノベルの棚を見て、漫画の棚を見て、雑誌の棚を見て、教科書の棚を見て、結局店内をぐるりと一周してしまった。

もしも自分が店員側であれば、待ち合わせの時間潰しだろうと思ってしまうだろう。

しかし、僕は本が欲しかった。

活字を欲していたのだ。

スマホで購入する電子図書は、「欲しいもの」しかないのだ。

なにもしなくても、購入履歴からコンピューターが自動的にリサーチをして、「おすすめ」を表示してくれてしまう。それで実際にそのおすすめはすべて僕の好みの書籍なのだ。

はっきり言おう、それじゃつまらないんだよ!

というか、読みたい本だけ読んでいたくないのだ。

読みたくない本、もっと言うと文章となるだろうか、ただただ活字に埋もれたい、そんな気分のときだってあるんだ。そうだろう、そうなはずだ、そのとおりだ。

そこで僕が購入したのが『文藝春秋』3月号である。

目当てはもちろん芥川賞受賞作「背高泡立草」の全文掲載だ。

金額は1000円ぴったり。

普段のくせで「パスもで」と言いそうになったが、敢えて現金で支払った。

千円札とは、かくも薄く頼りないものだったろうか。

見慣れた水色のトレーの上で、風が吹けば飛んで行ってしまいそうな、弱弱しき紙幣だ。キャッシュレスに慣れてしまった今となっては、現金にこそ、金額的な価値がきちんとあるのかどうか疑わしく感じてしまう。

それはそうと文藝春秋である。

紙の本を買うのは、おそらく年越し、下手したら二年、三年経っているかもしれない。

いや、専門書は買ったな、資格勉強用に。でも、あれは必要だから買ったまでで娯楽として購入はしていない。僕は専門書を読書とは認めない。(だってつまんないんだもん)。

せっかく買った紙の本である。

芥川賞受賞作ももちろん気になる。

けれど、「本」をもっと楽しみたいと僕は思った。

で、試みた。

表表紙から背表紙まですべての活字に目を通すという読み方を。

これが、存外楽しいのだ。

広告、え? 文藝春秋ってそんなとこターゲットにしてるの?

国宝級のふすま絵、知らないです。

伝統工芸の継承、へー。

これ、ターゲットが知識層のおじいちゃんなんだなって思っちゃったもん。

カラーページは大体そんな感じ。

というか、僕の場合、カラーのところほど読まなくてよいのかもしれないとも思った。

ほら、ジャンプも巻頭カラーのゲームショー特集とか興味なかったら読まないじゃん。

ワンピから読むでしょどうせ。

でも、そこはぐっとこらえて、(よくわからない)特集が挟まれてからの、随筆である。

これが今回一番の発見だった。

随筆、おもしろい!

もちろん、「はいわかりました」としか感想のつけられないようなものもあるのだが、面白いものはハチャメチャに面白い。

この短い文章の中で、これだけの面白さを伝えることができる人がいるんだと、三十路を過ぎて感動してしまった。

まだ、読み始めでその先の部分はまだ読めていないのだが、前半部分でこれだけ興奮するのだから、一冊まるまる読もうと思えばかなり楽しめるのではないかと思う。

「重要な部分だけななめ読みすればいい」という言説は、世の中的に、既に正とされてしまったきらいがあるように思う。

けれど、重要な部分がわかりきっている本なら、わざわざ読まなくてもいいのではないかと思えてしまう。きっと、箇条書きでいい。

僕が最近よく見るニュースサイトは、三行だ。

でも、それで十分に伝わってしまうから、きっとそれはそれできちんと役割を果たしているのだと思う。

しかし、文芸は違う。

重要な部分はあるだろう、そうでない部分ももちろんあるだろう、けれど、書いて、書いて、削ぎ落して、作り上げた文章を、ななめに読んで本当に楽しめるのだろうか。

文芸にまで「ななめ読みでいい」という言説を持ち出すのならば、その人は真に没入して活字を楽しんでいるのかどうか、僕は疑問でならない。

筆者は細部の細部にまでこだわっている。

ならば、読者としても細部の細部にまで目を凝らしてやりたいではないか。

そんな思いでもって、随筆というジャンルの素晴らしさに触れた今日この頃なのである。