遠浅の海、羊の群れ。

羊の群れは、きまって遠くの向こう岸で、べえやべえやとわなないている。

いつからだろう、目標を立てなくなったのは

いつからだろう、目標を立てなくなったのは。

若かりし日はあんなにも「〇〇までに〇〇する!」が好きだったのに。

いつからだろう、そういう輝かしい感じに疲れてしまったのは。

 

そんな気持ちの根っこには、「目標と挫折はセット」だという思考回路が働いているのかもしれない。

おかしな話だ、普通なら目標とセットになるのは到達だ。スタートとゴールがセットであるかのように。しかし、わたし個人の中では、目標とセットになるのはいつだって挫折だった。言い方を変えれば、スタートとセットになっていたのはリタイヤだ。

 

もう一つ視点を変えて見てみよう。

離婚を前提に結婚する夫婦は、おそらくいないと思う。しかし、離婚してしまったあととなっては、結婚と離婚はセットになってしまう。

 

そんな挫折を繰り返すうちに、目標を立てることが嫌いになってしまった。

たとえば、一か月で1キロ痩せるぞ! とか。

半年で外国語をマスターするぞ! とか。

今年中に彼氏を作るぞ! とか。

 

たぶん、自分の成功体験に期限を設けるのも嫌なんだと思う。

締め切りを作ってしまったら、もう破るしかないじゃないか。

どうせ目標なぞ達成できやしないのだ。

しかも、失敗したところでわたしが歯ぎしりをするくらいで、世間はいたって平和なままだ。わたしが「痩せる!」と言いつつ、締め切り直後にむしろ太っていたとしても、安倍政権は続き小池都政は続き新型コロナウイルス感染拡大防止のための新しい行動様式の模索は続くだろう。

 

決意だけして、実行しないのは、だってみっともないじゃないか。

決意表明はいくらでもできるさ。Twitterに呟くだけでもいいし、手帳に書くだけでもいい。

スタートを切ることは誰にでもできる。

しかし、ゴールを切ることは易しくない。

その目標が簡単なものであれ難しいものであれ、少なからず、必ず、リタイヤする人間はいるのだ。

 

そう、だから、わたしは目標というものが怖いのだ。

自堕落な自分を認めざるを得ない状況を作りたらしめる目標というやつが憎いのだ。

 

現状分析も、成功への投資も、挫折の二文字で塵のごとく吹き飛んでいく。

幽霊会員のまま引っ越しを機に辞めたフィットネスジムの月会費も、禁煙外来に通った15000円も、英会話教室に前払いしたン十万円も、無駄な投資であったと言わざるを得ない。

 

しかも、生活が変わっただけで気が付いたら痩せていたし、習慣が変わっただけで気が付いたら禁煙できていたし、英会話は駅前に通うより海外ドラマを見たほうが断然効果的だった。

 

ちょっと待て、今あげた三つ、ダイエット、禁煙、語学、この三つに関しては、結果的に成功してるじゃないか。

 

目標を立てていた頃は挫折していたのに、目標がなかったときは成功している、このねじれはいったいなんだ。

 

まさかこれが昨今話題のSDGsなのか……(違うと思う)。

 

わかった、向いてないんだ。

目標という野郎と、わたしという女との相性が悪いのだ。

 

「願えば叶う」にはなんの信憑性も感じられないが、「継続は力なり」はわかる。

でも、「好きこそものの上手なれ」は、上手だと思っているのは本人だけで、周囲からの評価は下手の横好きかもしれないのでわかりますとは言い難い。というか自分も勘違いしてんじゃねーかって怖い。

 

きっとわたしが目標さんを嫌っているように、目標さんもわたしを嫌っているに違いない。もしもわたしが目標さんの立場だったら、毎度呼び出されるたびに待ちぼうけを食らわされて、挙句の果てに予定をすっぽかされるなんて、許せない。なんというダメな奴だと思うだろう。なんてダメなやつなんだ、わたし。

 

わたしは、「目標を達成する」というプロセスが苦手だ。しかし「好きなことを継続する」というプロセスは得意なのかもしれない。

 

そういえば、小学生の頃も、スタートとゴールは苦手だった。夏休みの勉強計画なんて、机の上に広げただけで「うへえ」といった感じだった。でも、勉強すること自体は嫌いではないので、「夏休みの宿題」の大半は、8月の頭ごろには終わっていて、終わらせた後で実施日をどうちょろまかすか思案していた覚えがある。

 

社会人になってから、そのちょろまかしていた部分が、ちょろまかせなくなってきて、「同じリズムじゃ生きられないのよ」と思うことが増えた。

 

目標を立てて、達成したふりはできるのだ。対外的に。

しかし、個人的に、本気で立てた目標には、ことごとく到達したことがないのだ。

 

人にはリズムがある。得手不得手がある。

好きなことなら時間を忘れてとことんのめりこめる人もいれば、飽き性だけれど多趣味で多才な人もいる。

 

そんなこんなでわたしという人間は、「目標を立てる」ということをやめてしまった。

やりたいときにやればいいさ、「目標」も「達成」も、それらを敢えて指定しなかったとしても、やりたいことで、やり続けることができたならば、それらはいずれも、気が付いたときには過ぎ去っているはずだ。

 

目標にも、達成にもあとから気づけばいい。

締め切りは、仕事だけで十分だ。

余生はおおらかに行こうぜ。