遠浅の海、羊の群れ。

羊の群れは、きまって遠くの向こう岸で、べえやべえやとわなないている。

タイピング

子どもの頃、パソコンのキーボードを叩くのが好きだった。

最初はチャットだったように思う。

まだ、ISDNの時代で、通信料が安くなる深夜を狙って、どこの誰ともも知らない相手と、掲示板でチャットをしていた。

そのときのハンドルネームはなんだったか、思い出せないな。

そうしてキーボードで文字を打つことには慣れた。

子どもにしては、PCで文字を打つのは早いほうだったように思う。

 

それから、PCで文章を書くことに慣れて、何かを書くとか、思いを伝えるとか、そういうことではなくて、キーボードを叩くことを好きになった。

 

そんな流れで、「小説を書いてみよう!」なんてことも夢想したのだが、思いついたアイデアが形になることはなかったし、書き始めた小説が完成することもなかった。

そういうこらえ性についてはからっきしだったのだ。

 

文章を考えるとか、お話を考えるとか、思いを伝えるとか、そういうことではなくて、僕にとってキーボードを叩くことは、純粋にキーボードを叩くこと以外の何物でもなかったように思う。

何かを表現することを目的とした、手段としてのタイピングではなく、ただタイピングをすることのみが目的だったように思う。

つまりは、手段の目的化だ。

たとえば、誰かに思いを伝えることを目的に歌を歌う人と、歌を歌うこと自体が目的になっている人でいったら、僕のタイピングは後者であるということになる。

 

なにかをふと思いついて文字を打つことは過去にはたくさんあったのだが、ここ10年は離れてしまっていた。

 

自分と向き合うことを恐れいたのかもしれない。

自分の中に潜ることを忌避していたのかもしれない。

 

たぶんだけどね、自分が全然大したやつじゃないということを認めるのが怖かったんだと思う。

 

その10年、僕は20代で、ずっと恋人がいたし、友達も多くて、いつも派手で騒がしくて楽しかったから、自分が何者で何をなそうとしているのかなんて考える必要がなかったんだと思う。

 

文字をよく書いたのは、高校生から大学生にかけてだった。

それは、若者にとってありがちな、自分探しの行程だったのかもしれない。

今となっては黒歴史になってしまうのだろうが、そのときは日常の細やかな心の動きにいちいち感動して、それをどうにか文章で残すことができないかと毎回苦心していた。

 

それをありのままに表現して誰かの心に届けられるような芸術的文才は、もちろん僕には備わっていなかったわけなのだけれど。

 

それはそれは楽しくて、僕は夢中になった。

当時はミクシィが全盛で、二日にいっぺんは長い日記を書いていた。

これだけでももうやばいにおいしかしない。

自分がいったいどんなことを書いていたのかは、幸いにも忘れてしまっているのだが、忘れたままにしておきたい過去だったかもしれない。

 

新型コロナウイルスが流行してもう一年以上経つ。

僕は、娯楽も仕事も限界だ。

見たい動画もたいがい見たし、仕事は在宅勤務中心でとのかく退屈でやる気が出ない。

 

そんなところで、今まで自分が楽しいなと感じたことってなんだったかなと思いつつ、ノートパソコンで思ったことをつらつらと書くのが楽しかったなと思った。

 

そしして、ここにまたログインしてみた。

またすぐやめてしまうかもしれないけれど、今この文章を叩いている瞬間は、結構楽しい。

スマートフォンも気にならない。

無音でも気にならない。

そこそこ、夢中になれていて、少し驚いている。

こんなに夢中になれていることなんて、最近ずっとなかった。

 

筋肉は使わないと衰えるという。

仕事で人の文章の添削は何回かしていたが、自分で思ったことを書くということはなかった。僕が文章を書くという筋肉もかなり弱体化しているんだろう。

これからなにかを書こうと思うにしても、リハビリが必要なようにも思う。

 

とりあえず、文字を打つのが楽しいということは、少し思い出した。

 

青春を思い出すかのごとく、気の向くままに、書くことが続けられたらいいと思う。