遠浅の海、羊の群れ。

羊の群れは、きまって遠くの向こう岸で、べえやべえやとわなないている。

祈り

さっき思ったんだけど、僕はどうやら文章を書くのが好きみたいだ。

このところ、僕は、何にも夢中になれないことに不安を感じていた。

SNSで見る友人連中(実際に相互で知っているとは限らないのだけれど)は、仕事だったり、家事だったり、趣味だったり、コミュニケーションだったりにいつも夢中で、「楽しい今」を常に発信している。

僕は彼らのそれらを見るにつけ、自分にはどうしてこうも夢中になれるものがないのだろうとため息を重ねていた。

過去にはあった。

月並みだが、楽器を演奏したり、していた。

しかし、いつしかそれも億劫になってしまっていた。

「こんなことをしてなんになるのだろうか」そう考えてしまったたら、もう駄目だった。

自己肯定感というものが低いんだと思う。

なかなか、自分を認めて上げることができないのだ。

自分程度の人間はごろごろいるし、プロになってお金を稼ぐのはずっと大変だろうし、自分になんてできるわけないし、と後ろ向きな発想ばかりが僕の襟首を掴んで、楽しむことをさせてくれないのだ。

今となって思えば、ただの趣味なのだから、いちいちそんな小難しいことを考えなくてもよかったのに、と思えるのだが。

もしかしたら、そんなふうな、後ろ向きな自意識に足止めを食らっていなければ、練習を続けていれば、もっとなにか違う楽しみができていたかもしれないと、今になって思う。

僕は飽き性だ。

何かを始めてみては、自分がこんなことを続けていても、なんの役にも立たないし、きっと誰も喜ばない、とか、そんなことばかり考えて、始めたばかりの趣味からフェードアウトしていってしまう。

飽き性であり、こらえ性がないのだとも思う。

 

最近では、スマートフォンが手放せず、ネットニュースやSNSばかりを見ている。

自分にとって、今すぐに知らなければならないような情報なんて、一つもありはしないのに。

何をしていても、スマートフォンが手放せないのだ。

だから、思考がまとまらない。

何も、手につかない。

 

やりたいことはいくつかあるのだけれど、どれも始めるまでに至らない。

始めたところで、続けることがかなわない。

 

でも、今日久しぶりにノートパソコンを膝の上に乗せて、昔ながらのキーをタイプして、心が空っぽになっていくのを感じた。

 

僕にとって、タイピングをして頭の中にあるモヤモヤを、掻き出すことは、心を整えるひとつの手段となりえるのかもしれない。

正直に言って、こんなに落ち着いている時間は久しぶりだ。

 

いつもは、時間が経つのがとても遅く感じて、つらいのだ。

夕方から夜にかけて、時間が過ぎるのがこんなにゆっくりに感じたことは、30年以上生きてきてはじめてかもしれない。

これほどまでに集中できることが身の回りにないことも、はじめてかもしれない。

 

在宅勤務で仕事も手に付かない。

小説を読んでいても、今どれだけ読んだか、何分読んでいるかが気になってしまう。

テレビの内容も頭に入ってこない。

音楽も聴いていられない。

ゲームも始めらない。

 

おそらく、軽いうつが始まっているんだと思う。

 

それでもできることが見つけれた。

それは、単純に喜ばしいことだ。

 

リハビリでいい。

ただただ文章を重ねていくことで、僕の心が軽くなって、誰か、何かに八つ当たりしなくて済むのであれば、これほど素晴らしいツールはない。

 

続くかどうかはわからないが、僕はこの行為を、神との対話のように考えようと思う。

 

誰にも届くことのない、孤独な祈りだ。

これが、僕の気持ちを落ち着かせるための、心に凪を得るための、雑多な祈りの所作であればいいと思う。

 

僕にとって、雑記が祈りの道具たるように、日々のため息に似せて、ぼんやりと思いを刻んでいきたい。