遠浅の海、羊の群れ。

羊の群れは、きまって遠くの向こう岸で、べえやべえやとわなないている。

タイピング

子どもの頃、パソコンのキーボードを叩くのが好きだった。

最初はチャットだったように思う。

まだ、ISDNの時代で、通信料が安くなる深夜を狙って、どこの誰ともも知らない相手と、掲示板でチャットをしていた。

そのときのハンドルネームはなんだったか、思い出せないな。

そうしてキーボードで文字を打つことには慣れた。

子どもにしては、PCで文字を打つのは早いほうだったように思う。

 

それから、PCで文章を書くことに慣れて、何かを書くとか、思いを伝えるとか、そういうことではなくて、キーボードを叩くことを好きになった。

 

そんな流れで、「小説を書いてみよう!」なんてことも夢想したのだが、思いついたアイデアが形になることはなかったし、書き始めた小説が完成することもなかった。

そういうこらえ性についてはからっきしだったのだ。

 

文章を考えるとか、お話を考えるとか、思いを伝えるとか、そういうことではなくて、僕にとってキーボードを叩くことは、純粋にキーボードを叩くこと以外の何物でもなかったように思う。

何かを表現することを目的とした、手段としてのタイピングではなく、ただタイピングをすることのみが目的だったように思う。

つまりは、手段の目的化だ。

たとえば、誰かに思いを伝えることを目的に歌を歌う人と、歌を歌うこと自体が目的になっている人でいったら、僕のタイピングは後者であるということになる。

 

なにかをふと思いついて文字を打つことは過去にはたくさんあったのだが、ここ10年は離れてしまっていた。

 

自分と向き合うことを恐れいたのかもしれない。

自分の中に潜ることを忌避していたのかもしれない。

 

たぶんだけどね、自分が全然大したやつじゃないということを認めるのが怖かったんだと思う。

 

その10年、僕は20代で、ずっと恋人がいたし、友達も多くて、いつも派手で騒がしくて楽しかったから、自分が何者で何をなそうとしているのかなんて考える必要がなかったんだと思う。

 

文字をよく書いたのは、高校生から大学生にかけてだった。

それは、若者にとってありがちな、自分探しの行程だったのかもしれない。

今となっては黒歴史になってしまうのだろうが、そのときは日常の細やかな心の動きにいちいち感動して、それをどうにか文章で残すことができないかと毎回苦心していた。

 

それをありのままに表現して誰かの心に届けられるような芸術的文才は、もちろん僕には備わっていなかったわけなのだけれど。

 

それはそれは楽しくて、僕は夢中になった。

当時はミクシィが全盛で、二日にいっぺんは長い日記を書いていた。

これだけでももうやばいにおいしかしない。

自分がいったいどんなことを書いていたのかは、幸いにも忘れてしまっているのだが、忘れたままにしておきたい過去だったかもしれない。

 

新型コロナウイルスが流行してもう一年以上経つ。

僕は、娯楽も仕事も限界だ。

見たい動画もたいがい見たし、仕事は在宅勤務中心でとのかく退屈でやる気が出ない。

 

そんなところで、今まで自分が楽しいなと感じたことってなんだったかなと思いつつ、ノートパソコンで思ったことをつらつらと書くのが楽しかったなと思った。

 

そしして、ここにまたログインしてみた。

またすぐやめてしまうかもしれないけれど、今この文章を叩いている瞬間は、結構楽しい。

スマートフォンも気にならない。

無音でも気にならない。

そこそこ、夢中になれていて、少し驚いている。

こんなに夢中になれていることなんて、最近ずっとなかった。

 

筋肉は使わないと衰えるという。

仕事で人の文章の添削は何回かしていたが、自分で思ったことを書くということはなかった。僕が文章を書くという筋肉もかなり弱体化しているんだろう。

これからなにかを書こうと思うにしても、リハビリが必要なようにも思う。

 

とりあえず、文字を打つのが楽しいということは、少し思い出した。

 

青春を思い出すかのごとく、気の向くままに、書くことが続けられたらいいと思う。

 

手記

道具を揃えれば、また何か新しいことに打ち込めるんじゃないかと僕は妄想する。

しかし、変な勢いで素晴らしく便利な物を手に入れたとしても、使わなければただのガラクタにすぎない。機械ならば起動せず、モノならば埃を被り、

 

夢中になれない。

本当にいい歳になってしまったのだが、子どもの頃、あんなに夢中になれていたことが不思議でならない。

夢中でいられる人たちが羨ましくて仕方ない。

頭の中をまとめるために、旧式のノートパソコンを開いてみたが、何を書いていいのかすらわからない。

あの頃、持っていたはずの情熱はいったいどこに行ってしまったのだろうか。

僕にとっての、楽しいこととはいったいなんなのだろうか。

集中力なんて15分も持たない。

仕事の打ち込もうと思っても、机の上に座っているのがやっとで、何をどうすればいいのか、まったくもって手につかない。

うつで休職して、復職して一年、楽しいと思えたことなんて数えるほどもない。

はっきりいってリハビリだ。

しかし、このままリハビリだけをして残りの人生を終えていくのは、どう考えてもつらすぎる。

 

猫に小判、豚に真珠、私にsampleTank、それはまるで積ん読

それこそ、十代の頃からの趣味なのだが、DTMをやっている。

DIYではない、DTMだ。

デスクトップミュージック、略してDTM。実生活ではまるで役に立たない言葉なので今すぐ忘れてもらって構わない。

ちなみにDIYはDo It Yourself(自分でやる)の略だ。

こっちは、いざというときにいい女ぶれるかもしれないので、あなたの脳みその桐たんすの右上の小棚に入れておいてやってもいいと思う。

 

そんなわけでDTM

もう、いくらでも想像できちゃうと思うのだが、つまりはPCで音楽作っちゃうぜっていうやつだ。

デスクトップミュージック、机の上で音楽だからね。

それを、中学生くらいから、ピコピコちゃかちゃか趣味でやっていたわけですよ。

そして、年齢を重ねたり、仕事が変わったり、環境が変わったり、やる気が失せたりするたびにやめて、気が向いたらまたはじめて、みたいなことを繰り返していた。

 

今の会社に入って8年が経った。

年齢的にも、まあ中堅。中堅でも、事務職の給料は安い。

8年かかって係長にまではなったのだが、ポストが空かず(私はそう思っている)管理職にはしてもらえない。というか、なりたくもないな。

 

自分から退職をしたことは一度もないのだが、事情により二回転職をしている。

一社目はリーマンショックの煽りを受けて新人研修中に集団解雇。二社目は、社というか学校なのだが、三年やったが根詰めすぎて倒れて、その際持病を持ってしまって、医師から休むべしとそそのかされて、次年度の採用希望を見送った。

そうして、「なにもしていない期間」が何か月があったのだが、このままではならんと思い、「なんでもいいから雇ってくれる会社」を探して今の会社の管理部に配属された。

エクセルもワードも使えなかったけど、直属の上長がめちゃくちゃスパルタンXだったので、泣きながら独学で覚えた。

それから、8年、IT使った事務仕事は、部の中で私が一番詳しいような状態になっている。

 

思い返すと「なんでもいいからなにかしなきゃ!」という気持ちが強かった8年前。あの頃の私にもう一度会うことができたなら「なんかしてなきゃ死ぬんかい……」と諭してあげたい。

 

そうだ。なにもしてなくても死にはしないのだ。

しかし、なにもしていなくても、お腹は空くし、お腹は空く。つまり、お腹が空く。

 

いまだ続くCOVID-19で、弊社も在宅勤務への移行を余儀なくされた。と、そんなこともなく、もともと国のテレワーク参画にモデル企業として参画していたので、事務職社員のテレワークへの移行はそんなに難しいものではなかった。

ただし、コロナ禍の管理部のバリバリ在宅勤務できちゃう事務職社員係長、暇なわけがない。2月半ばには不眠症が始まり、緊急事態宣言が明けたころには、ベッドから起き上がれなくなっていた。

近所の診療内科まで這っていき、「うつ状態」の診断書をもらったのがつい二週間前だ。

 

そうして、とりあえず仕事を離れて休みましょうということになった。

それでも、私に張り付いていた仕事は、多く最初の一週間は職場からヘルプアイニージュヘルプミーの電話がかかりまくっていた。

医者が「働ける状態にない」って言ってんのに「休むなら引き継ぎして」ってどういうこっちゃねん。フォルダにログインできる権限はあんたら全員が持ってるんだから好きにやったらええがな。私が作ったアクセスもマクロも使わんでもええがな、そろばんでもなんでもつかっちゃりいな。

そんな感じだから、引き継ぎのテレカンでは、もう、今にも119なんじゃないかってほどのつらさを醸し出して、「ちょっと考えればわかるじゃねえですか」感ばしばし出して、「あなた方は労務を供することが不適切な人間に労務を強いている」という状況を無理やり作って、嫌な奴になってやった。

面倒くさいことはなんでもかんでも振ってきた恨みつらみがあるもんで、このくらいの仕返しは許されるのではないかと思ったのだ。

で、テレカン終わったらhulu観てた。労働時間にカウントされてないんですこの「引き継ぎ」とかいうやつ、わかります? 直後にhulu観るくらいいいじゃないですか。

 

脱線してしまったのでDTMに戻る。

休み始めて二週間、驚くほど眠れる。

ここ10年不眠症と仲良くてしていて、2月半ばからは本当に重症で、午前中は意識ない状態で仕事していたのに。目の下のクマひどかったの、ウェントワース女子刑務所のフランキーみたくなってたのに。フランキー、好き。

 

そいでもって、寝て、寝て、テレビ観て、寝て、ウェントワース観て泣いて、寝て、ウェントワース観て、泣いて、泣いて、寝て、そんなことを繰り返しているうちに、やっと、ずっと失っていた「平常心」というものが戻ってきたような気がしたのね。

それまでは、目の奥が痛かったり、首、肩、背中が張っていたり、足が熱かったり、顔がほてっていたり、動悸がきつく感じたり、とにかく不調だった。ずっと、どこかしら不調だったのよ。

それが(なんのためにやっていたのか、誰のためにやっていたのかわからない)仕事を離れて、睡眠(過眠)に溺れて、オーストラリア産女囚ドラマにのめりこんでいるうちに、すっかり人としての形を取り戻せたような気がするの。

もうね、わたしそれまでメタモンだったね。

上司からの指示を受けてそれをうまいことできる人になりきってやりこなすやつ。

忘れてたわ、人だったわ。楽しかったら笑顔になるし、悲しかったら涙が出る。人だわー、人だった。

まあ、メタモンも泣いたり笑ったりするんだろうけどね。わたしメタモンでもなかったわ。

 

そうして二週間心のおやすみをいただいたわたし、次になにをしたかというと、プライベートPCにMIDIキーボード繋いじゃいました。

コロナセール(?)のどさくさに紛れて、70%オフでIKmultimediaの全部入り音源ソフトゲットしちゃいました。

コンデンサマイク買ったり、サンプラーソフト買ったり、DAWアップデートしたりなんかして、今月のカードの引き落とし13万ですってよ。

コロナのせいで家から出てないから、いつもより引き落とし全然少ないと思ってたのに~、使ってた~、使ってたわ~、70%オフといえども4万円だもんね。1TBといえど外付けSSDに3万円だもんね。

いやしかし後悔はしていいない。本当のわたしを取り戻すためにこれは必要な出費だったのだ!

 

本当のわたし、なにそれ、誰、知らん。

 

ここで話はやっとDTMに戻ります。

そんな、そこそこの金を支払って、しかしお得に、かっちょいい音がたくさん出るソフトを手に入れたわけです。

3万色以上の音色があなたのDTMライフを加速させる、ですって。

3万色以上、正直そんな要らねえな。

使うのなんてどうせ15種類くらいだし。

 

でもまあ、くれるもんはもらっとくよ、ということで音源ダウンロード開始。

 

で、さ、さっきも書いたけど、メインで使う音って結構決まってて、「こっちの音のほうがいいかな」とか、そんなマニアックなことわたししないのね。

ドラムとパーカスくらい。ギターの音ととか、下手しい自分で弾いたほうが早いんじゃねえかなと思うこともある。

 

だから、3万色って言われても「へえ」としか思わないの。

だのに、ダウンロードしなきゃいけないの。

わたし、三日で10GBで速度制限かかるポケットWi-Fiしか持ってないの。

 

制限、かかるに決まってんじゃん。

 

今、メインのサンプルタンクのダウンロードが終わって現時点で60GBですよ。

このあと、弦のミロスラブフィルハモニクの音源で55GBですよ。

低速~、超低速~、全然ダウンロード終わらない~

ここまでして音源を確保しておく必要あるのかってね、思っちゃうよね。

でも買ったらこれだけで4万するソフトだからね。

無駄にはしたくないよね。

たしかにいい音なのは知ってる、聴き比べて、フリーのサンプル音源とは比較にならないほどリアルな質だってのはわかってる、けど、フルオーケストラアレンジなんてやるのか? この私が? やらねえだろ、断言してもいい、絶対やらねえ。

にもかかわらず、ダウンロードを強行している。

 

これさ、積ん読だよ。

読みもしないくせに、さも高尚そうな分厚い本を、本棚に入れて眺めているような状態。

本当に使うのはフリーソフトで賄える範囲で十分なのに、勢いと格好つけで全集買っちゃったみたいな。

お前、絶対そんな本読まないだろ! みたいな。

女子大生の東野圭吾(ハードカバー)みたいな。

 

すべてを自由にこなすDTMerへの道は遠いな。

今日中に弦音源入れちゃいたいけど、終わらなそうだなー。

 

待ち遠しすぎてこんな文章書いちゃってるくらいだからなー。

いつからだろう、目標を立てなくなったのは

いつからだろう、目標を立てなくなったのは。

若かりし日はあんなにも「〇〇までに〇〇する!」が好きだったのに。

いつからだろう、そういう輝かしい感じに疲れてしまったのは。

 

そんな気持ちの根っこには、「目標と挫折はセット」だという思考回路が働いているのかもしれない。

おかしな話だ、普通なら目標とセットになるのは到達だ。スタートとゴールがセットであるかのように。しかし、わたし個人の中では、目標とセットになるのはいつだって挫折だった。言い方を変えれば、スタートとセットになっていたのはリタイヤだ。

 

もう一つ視点を変えて見てみよう。

離婚を前提に結婚する夫婦は、おそらくいないと思う。しかし、離婚してしまったあととなっては、結婚と離婚はセットになってしまう。

 

そんな挫折を繰り返すうちに、目標を立てることが嫌いになってしまった。

たとえば、一か月で1キロ痩せるぞ! とか。

半年で外国語をマスターするぞ! とか。

今年中に彼氏を作るぞ! とか。

 

たぶん、自分の成功体験に期限を設けるのも嫌なんだと思う。

締め切りを作ってしまったら、もう破るしかないじゃないか。

どうせ目標なぞ達成できやしないのだ。

しかも、失敗したところでわたしが歯ぎしりをするくらいで、世間はいたって平和なままだ。わたしが「痩せる!」と言いつつ、締め切り直後にむしろ太っていたとしても、安倍政権は続き小池都政は続き新型コロナウイルス感染拡大防止のための新しい行動様式の模索は続くだろう。

 

決意だけして、実行しないのは、だってみっともないじゃないか。

決意表明はいくらでもできるさ。Twitterに呟くだけでもいいし、手帳に書くだけでもいい。

スタートを切ることは誰にでもできる。

しかし、ゴールを切ることは易しくない。

その目標が簡単なものであれ難しいものであれ、少なからず、必ず、リタイヤする人間はいるのだ。

 

そう、だから、わたしは目標というものが怖いのだ。

自堕落な自分を認めざるを得ない状況を作りたらしめる目標というやつが憎いのだ。

 

現状分析も、成功への投資も、挫折の二文字で塵のごとく吹き飛んでいく。

幽霊会員のまま引っ越しを機に辞めたフィットネスジムの月会費も、禁煙外来に通った15000円も、英会話教室に前払いしたン十万円も、無駄な投資であったと言わざるを得ない。

 

しかも、生活が変わっただけで気が付いたら痩せていたし、習慣が変わっただけで気が付いたら禁煙できていたし、英会話は駅前に通うより海外ドラマを見たほうが断然効果的だった。

 

ちょっと待て、今あげた三つ、ダイエット、禁煙、語学、この三つに関しては、結果的に成功してるじゃないか。

 

目標を立てていた頃は挫折していたのに、目標がなかったときは成功している、このねじれはいったいなんだ。

 

まさかこれが昨今話題のSDGsなのか……(違うと思う)。

 

わかった、向いてないんだ。

目標という野郎と、わたしという女との相性が悪いのだ。

 

「願えば叶う」にはなんの信憑性も感じられないが、「継続は力なり」はわかる。

でも、「好きこそものの上手なれ」は、上手だと思っているのは本人だけで、周囲からの評価は下手の横好きかもしれないのでわかりますとは言い難い。というか自分も勘違いしてんじゃねーかって怖い。

 

きっとわたしが目標さんを嫌っているように、目標さんもわたしを嫌っているに違いない。もしもわたしが目標さんの立場だったら、毎度呼び出されるたびに待ちぼうけを食らわされて、挙句の果てに予定をすっぽかされるなんて、許せない。なんというダメな奴だと思うだろう。なんてダメなやつなんだ、わたし。

 

わたしは、「目標を達成する」というプロセスが苦手だ。しかし「好きなことを継続する」というプロセスは得意なのかもしれない。

 

そういえば、小学生の頃も、スタートとゴールは苦手だった。夏休みの勉強計画なんて、机の上に広げただけで「うへえ」といった感じだった。でも、勉強すること自体は嫌いではないので、「夏休みの宿題」の大半は、8月の頭ごろには終わっていて、終わらせた後で実施日をどうちょろまかすか思案していた覚えがある。

 

社会人になってから、そのちょろまかしていた部分が、ちょろまかせなくなってきて、「同じリズムじゃ生きられないのよ」と思うことが増えた。

 

目標を立てて、達成したふりはできるのだ。対外的に。

しかし、個人的に、本気で立てた目標には、ことごとく到達したことがないのだ。

 

人にはリズムがある。得手不得手がある。

好きなことなら時間を忘れてとことんのめりこめる人もいれば、飽き性だけれど多趣味で多才な人もいる。

 

そんなこんなでわたしという人間は、「目標を立てる」ということをやめてしまった。

やりたいときにやればいいさ、「目標」も「達成」も、それらを敢えて指定しなかったとしても、やりたいことで、やり続けることができたならば、それらはいずれも、気が付いたときには過ぎ去っているはずだ。

 

目標にも、達成にもあとから気づけばいい。

締め切りは、仕事だけで十分だ。

余生はおおらかに行こうぜ。

 

 

不眠症が悪化しまして

不眠症を患っている。

十年ほど前に入院をした際、眠れなくなり、それからずっと睡眠薬を処方してもらっていたのだが、とうとう同じ薬が効かなくなったらしい。

だから「眠れない」と感じてから、倍量を飲んだところ、いったんは眠れるようになった。

それから数か月して、倍量でも効かなくなった。

「顔色が悪いですよ」

同僚にそう言われてたときは、「嫌なことを言う人だな」くらいにしか思っていなかったのだが、思い返してみれば、その頃の体調は絶不調だった。

常に手が震え、冷や汗をかき、頭痛がひどく、動悸がして、体の背面すべての筋肉が凝り固まって痛かった。

夜は眠れない。

休日だとしても、会社を休んだとしても、眠れない。

徹夜明けの昼でも眠れない。

いつも何か叫びだしたいような気分で、猫背のままスマートフォンをいじっていたように思う。

ときに、同居人にきつく当たってしまうこともあった。

思い返してみれば、あれも、眠れないことがわたしの精神を蝕んでいたことが遠因だったのかもしれない。

 

寝床から起き上がれず欠勤することも増えた。

そんな状況に耐えかねて、わたしは心療内科を訪ねた。

 

わたしが住む町の、駅前の雑居ビルの四階にある、こじんまりとした心療内科だ。

待合室には、おそらく何かしらの問題を抱えた患者が、座って、静かに自分の順番を待っていた。

 

 

僕にはレビューが書けなかった

映画をよく見る。ひとりで。

たまには、友達と。

 

それで、先日も「日本初の18禁BL実写映画!」という触れ込みに釣られて池袋まで映画を観に行ってきた。

 

面白かった。

が、まあ、いろいろ思うところもあったので、この気持ちは映画レビューとして、上映がおやすみになるタイミングで書こう! と思っていたのだ。

きっと、書くのは好きな僕のことだ。このシーンは最高だとか、あのシーンはそうじゃないとか、自分勝手なことをつらつらと綴れるもんだと思っていたのだが、映画を観に行ったいきさつを書いて、内容に触れるころには、もう飽きてしまっていた。

 

どうやら、僕は「映画の内容を伝えて共感してほしい」人ではなかったらしい。

最初はいわゆるレビュアー気取りで、「日本初のR18BL実写映画!」なんて書いていたのだけれども、どこかで見たことのある文体で、どこにでも落ちていそうな感想をぺたぺたと書いていたのに、瞬間、「つまんねえな」と声が漏れて、無感情にそれまで書いた(おそらく、2000字程度)テキストを、全範囲選択、デリート、してしまったのだ。

 

もったいない。

 

書いて、書いて、書いて、飽きて、消す。

この作業はいったいなんだったのだろうか。

 

たぶん、僕が想定する(実在しない)つまらない誰かが、同じことやりそうだと、そういうふうに思ったのかもしれない。

とてつもなく無価値なものを作っている気がして、そんなことを趣味でやるなら、趣味ごと捨ててしまえ、と。

 

僕には映画のレビューが書けなかった。

仕事だったら、きちんと書いただろう。

でも、趣味で仕事のまねごとをやるなんて、愚かここに極まれりではないか。

 

映画のレビューを書いてお金をもらっている人のレビューはきっと面白いんだろう。

だからこそお金がもらえるのだ。

僕は映画のレビューが書けなかった。

というか、まあ、そこそこにわーきゃーわーきゃー言っているものを書いてはいたのだが、途端に興味が失せてしまった。

 

そして、この感情はなんだろうと、今この文章を書いている。

 

僕の中にもいちおう「こだわり」というものがまだ存在しているのだということを実感できるできごとだ。

納期があったり、求められて書いたものであれば、自分が納得していないものでも、「これで今回はどうにか勘弁してください」と頭を垂れながら、提出をしたかもしれない。

 

日々の食い扶持を稼ぐためにやっている仕事で、仕方なくつまらない人になってしまうのは仕方のないことだ。やらなければ食いっぱぐれる。

しかし、自分が楽しくてやっていることをつまらなくするような要素なら取り入れないほうがいい。

 

もう、あの2000字はこの世のどこにも存在していないのだが、よく見たことのある誰かの文章だった。

僕のテキストじゃない。

格好いい響きだったり、美しい並びだったり、そういうことを、書いては消して、書いては消して紡いで築くのは楽しい。

 

できないのではなくて、向いてないといったほうがいいのかもしれない。

面白おかしい映画レビューは僕には向いていない。

向いてないのだ。

あの日の二時間を振り返って、ひとつひとつのシーンを紐解いて、読解していく作業を面倒くさいと感じてしまったのだ。

 

もちろん、その文章の隙間にも、自分の感情やこだわりが滑り込む余地はある。

けれど、主題に興味が持てなくなってしまったのなら、それ以上のタイピングは労苦でしかないし、なにより、行為に意味が見いだせない。

 

じゃあ、僕が今「映画のレビューが書けなかった」と書いているのはなんでだろう。

体感としては、考えながら吐き出しているといった具合だ。

 

そこで、少しの閃きを得た。

かたちのないものをテキストで表現することが好きだけれど、完成したものを評論するのは好きではない、そういうことなのかもしれない。

 

僕が今書いているのは僕の気持ちで、思いで、感情だ。

「どうしてこんなことになってしまったんだろう」というところから、この文章は出発している。

とても、内省的である。

 

心の中を吐露するのは気持ちがいい。

自分でもよくわからないもやもやしたものの輪郭を、テキストという手法を用いて、少しずつ整えていく。

たとえば、感情に名前をつけるような。

 

気持ちが乗れば映画のレビューだって書けるんだろう。

たぶん、映画鑑賞直後の僕なら、もっとずっと楽しんで”レビュー”できたのかもしれない。でも、鑑賞から3日経った今では、あの日の出来事にそれほどの興味を持てなくなってしまった。

 

興味は偉大だ。

すべては、興味からはじまる。恋も遊びも勉強も。

 

興味が持てないことを継続するのは難しい。

今日に限って言うならば、興味こそがすべてだとすら思える。

 

あの日の映画にけちをつける前に、もっと書きたいことがあるんじゃないかと自問した。

ある、きっとある。

それは、「既に誰かが書いている」と思えてしまうようなものではない。

 

もうすぐこの内省日記も2000字に到達する。

そんなところで、新しい楽しみに気付いた今日である。

 

 

 

随筆というジャンルの奥ゆかしき

久しぶりに紙の本を買った。

文藝春秋』である。

生来読むことが好きなくせに、最近はスマホにばかり時間を取られているなと感じて、タイムイーターに対する反骨精神で、近所の書店を訪れた。

本棚に本が埋まっていない、中学・高校の参考書やなんかをメインに取り扱っている地域の書店だ。

「本屋」といえば、ジュンク堂紀伊国屋にすぐ駆け込んで、絶対に買わないであろうジャンルの階で「本の奥ゆかしさ」に眩暈を覚えること趣味としている僕が、地域の書店を訪れたのだ。

おそらくメンタルの不調でおかしな薬でも飲んでいたのであろう。というか、実際にメンタルの不調で調子を上げる薬を服用していたのだが、まさか、日々店前を通過するだけの本屋さんで本を買うことになろうとは思っていなかった。

目当ての本があったわけではないのだ。

目当てのものがあればアマゾンさんにお願いしてしまうだろうし、本との出会いを楽しみたいのであれば前述の大型書店へ行ってしまう。

小説も、漫画も、雑誌も、参考書も専門書も、売れ筋……というか、売れ筋のものすら取り揃えられていない。

(平積み、選んでないだろ……)

おそらく、おそらくだが、あくまでも僕の想像だが、ここの店主様は、近隣学校への教科図書および参考書の納品で食い扶持は稼げているのではないかと思うのだ。

それに、ドローンがプレゼントを運ぶこの時代に、「わざわざ本屋まで来て紙の本を買うような人間いねーっすよ」という諦めの感情すら見える気がする。

こうして地域の書店はどんどん縮小してい……くという話は別の機会に置いておいて、入ってみてさっそく、さて何を買おうかと悩んだ。

狭い店内だ。小説の棚を見て、ライトノベルの棚を見て、漫画の棚を見て、雑誌の棚を見て、教科書の棚を見て、結局店内をぐるりと一周してしまった。

もしも自分が店員側であれば、待ち合わせの時間潰しだろうと思ってしまうだろう。

しかし、僕は本が欲しかった。

活字を欲していたのだ。

スマホで購入する電子図書は、「欲しいもの」しかないのだ。

なにもしなくても、購入履歴からコンピューターが自動的にリサーチをして、「おすすめ」を表示してくれてしまう。それで実際にそのおすすめはすべて僕の好みの書籍なのだ。

はっきり言おう、それじゃつまらないんだよ!

というか、読みたい本だけ読んでいたくないのだ。

読みたくない本、もっと言うと文章となるだろうか、ただただ活字に埋もれたい、そんな気分のときだってあるんだ。そうだろう、そうなはずだ、そのとおりだ。

そこで僕が購入したのが『文藝春秋』3月号である。

目当てはもちろん芥川賞受賞作「背高泡立草」の全文掲載だ。

金額は1000円ぴったり。

普段のくせで「パスもで」と言いそうになったが、敢えて現金で支払った。

千円札とは、かくも薄く頼りないものだったろうか。

見慣れた水色のトレーの上で、風が吹けば飛んで行ってしまいそうな、弱弱しき紙幣だ。キャッシュレスに慣れてしまった今となっては、現金にこそ、金額的な価値がきちんとあるのかどうか疑わしく感じてしまう。

それはそうと文藝春秋である。

紙の本を買うのは、おそらく年越し、下手したら二年、三年経っているかもしれない。

いや、専門書は買ったな、資格勉強用に。でも、あれは必要だから買ったまでで娯楽として購入はしていない。僕は専門書を読書とは認めない。(だってつまんないんだもん)。

せっかく買った紙の本である。

芥川賞受賞作ももちろん気になる。

けれど、「本」をもっと楽しみたいと僕は思った。

で、試みた。

表表紙から背表紙まですべての活字に目を通すという読み方を。

これが、存外楽しいのだ。

広告、え? 文藝春秋ってそんなとこターゲットにしてるの?

国宝級のふすま絵、知らないです。

伝統工芸の継承、へー。

これ、ターゲットが知識層のおじいちゃんなんだなって思っちゃったもん。

カラーページは大体そんな感じ。

というか、僕の場合、カラーのところほど読まなくてよいのかもしれないとも思った。

ほら、ジャンプも巻頭カラーのゲームショー特集とか興味なかったら読まないじゃん。

ワンピから読むでしょどうせ。

でも、そこはぐっとこらえて、(よくわからない)特集が挟まれてからの、随筆である。

これが今回一番の発見だった。

随筆、おもしろい!

もちろん、「はいわかりました」としか感想のつけられないようなものもあるのだが、面白いものはハチャメチャに面白い。

この短い文章の中で、これだけの面白さを伝えることができる人がいるんだと、三十路を過ぎて感動してしまった。

まだ、読み始めでその先の部分はまだ読めていないのだが、前半部分でこれだけ興奮するのだから、一冊まるまる読もうと思えばかなり楽しめるのではないかと思う。

「重要な部分だけななめ読みすればいい」という言説は、世の中的に、既に正とされてしまったきらいがあるように思う。

けれど、重要な部分がわかりきっている本なら、わざわざ読まなくてもいいのではないかと思えてしまう。きっと、箇条書きでいい。

僕が最近よく見るニュースサイトは、三行だ。

でも、それで十分に伝わってしまうから、きっとそれはそれできちんと役割を果たしているのだと思う。

しかし、文芸は違う。

重要な部分はあるだろう、そうでない部分ももちろんあるだろう、けれど、書いて、書いて、削ぎ落して、作り上げた文章を、ななめに読んで本当に楽しめるのだろうか。

文芸にまで「ななめ読みでいい」という言説を持ち出すのならば、その人は真に没入して活字を楽しんでいるのかどうか、僕は疑問でならない。

筆者は細部の細部にまでこだわっている。

ならば、読者としても細部の細部にまで目を凝らしてやりたいではないか。

そんな思いでもって、随筆というジャンルの素晴らしさに触れた今日この頃なのである。