遠浅の海、羊の群れ。

羊の群れは、きまって遠くの向こう岸で、べえやべえやとわなないている。

枕元に好きなモノをぽつんと置いてただ見てるだけでも

一年ほど前に、ミニマリズムという生き方に傾倒したことがある。「生き方」というよりは、「生活手法」と言ったほうが正しいかもしれない。それを専門としてやっている、自身をミニマリストと自称するような類の人々は、それこそが「思想」だとのたまうのかもしれないが。いずれにせよ、少しかじっただけの僕にとっては、ミニマリズムは「生活手法」の一つであったとしか言えない。

極端にモノは少なく、必要なモノ以外は持たない、今使わないモノは持たない。多機能を有するモノがあるならば、機能が

重複しているモノは捨てる。

たとえば、スマートフォンさえあれば、テレビもビデオも時計もオーディオプレーヤーもゲーム機も要らないでしょうと、そんなところ。

食事も、買ってきたものをすぐ食べるなら保存の必要がないから冷蔵庫も要らない。仕事もプライベートも寝るときも出かけるときも同じ服で済ませられるなら、私服さえも制服化して、三着残してあとは処分するとか。いい毛布が一枚あれば床でも寝られるだとか。極端に言えば、「要らない!」と感じたものをすべて手放すことで、モノに煩わされないことを目指しているんだろうなと思う。

悲しいかな、人はモノに心を縛られる生き物であるから。あれが欲しいこれが欲しいはどうしても尽きないし、もしかしたら、今欲しいモノを一生買わないとしたら、それは一生欲しいモノになるのかもしれない。

ミニマリズムの対義語を、マキシマリズムという。生活最小限から、生活最大限へ、持てる限りのモノを持ち尽くして、好きなモノに埋もれて生きていくのだという生活手法だ。

単純に考えて、マキシマリストには金が要る。金がある人こそ、歴然としたマキシマリストでいられるのかもしれない。

たくさんのモノを抱え込むには大きな家が必要だし、大きなモノ(たとえば車とか)が好きならば、それを手に入れ、維持していくだけの金が必要だ。

豪邸に住んでたくさんの家族に囲まれて骨とう品なんかを集めちゃう、僕はついそんなイメージをしてしまうんだけど、違うのかな。

たぶん、そうじゃない、狭い部屋に無理やりにぬいぐるみや健康器具を詰め込んだ「捨てられない人」もその中には入るのかもしれない。他人から見たら「要らないモノ」でも本人からしたら「どうしても必要なモノ」ってことはままある。

そんなわけで、僕が一年前にハマってたものは生活最小限のほうだったわけなのだけれども、まあ捨てた捨てた、「明日何着て生きていこう」ってくらい捨てたよ。

捨て方に迷ったら僕に聞いてねってくらいには捨てたね。実際、今、休日に着る服がなくて困っているくらいだもの。

最初のうちは、手放せた喜びがすごく強いんだよね。所有する欲求に勝ったぞ! 誘惑を退けたぞ! やっつけたぞ! そんな気持ちでいっぱいだった。でも、すべて捨て終えてしまったら、何もないがらんどうの部屋がとてもとてもさみしく見えてきてしまってさ。既に手放したモノは本当に要らないモノだったんだ。手放してやっとわかったんだけど、僕は本当に必要なモノは持ってなかったみたいなんだ。

あの日に手放して、最近買い戻したものがあってね。49鍵のMIDIキーボードなんだけど。

あの日はね、「もう音楽はやらないから楽器機材は全部要らない」と思って、88鍵の電子ピアノもアコースティックギターエレキギターも処分したんだよ。

それで、何もなくなった部屋で、休日の僕が一日何してるかっていうと、スマートフォン見てるのさ。ただ、延々と、Twitterのタイムラインを追ってるの。他にほとんど何もない部屋で、ミニマリスト様御用達の三つ折りマットレスに寝そべって、寝間着兼部屋着兼外着のままで、スマートフォンを眺め続けているんだよ。

そのとき僕は、ミニマリズムを楽しめてないなあと思ったんだ。

その時の自分を客観的に考えてさ、とても、とてもみすぼらしいと感じてしまったんだな。

これはきつかった。これが一生続くのは嫌だなと、心底思ったんだよ。

生活最小限を目指すのもいい、必要最低限で暮らすのもいい、けれど、それを自分自身で「みすぼらしい」と感じてしまったからには、その方向性は既に間違いなんだと思うんだ。

なんでもかんでも、今使わないから捨てればいいってもんじゃないんだなと思ったよ。

視界に留めて「煩わしい」と感じたモノは捨てるべきだけど、自分の半身を削られるような思いでやるもんじゃないんだな、断捨離って。

何もない部屋にひとりでいると、つらくなってくるから結局外出して、パチンコ打ったりして、つらいことになるし。

外に出たところで、漫画喫茶かカラオケか飲み屋くらいしか行きつくところはないし。

無駄足と浪費。それが、増えていったんだね。

断捨離もいいよ。必要のないモノは捨てたらいい。

捨て続けて、「好きなモノ」は捨てるべきではないとわかった。

価値のあるなしにかかわらず、自分にとってどれだけ重要かで判断すべきだって。

たとえば、子供の頃から大事にしていたせいで薄汚れてしまったぬいぐるみだって、その人にとっては長年の相棒で、なくてはならないものだったりするわけじゃない。

僕は、とても単純な人間なので、身の回りのモノがなくなると、すぐに自分の心の動きに気を取られてしまうんだ。

それで、Twitterのタイムラインを追いかけることしかできなくなって、誰が今どうしてるとか、つまりは、赤の他人のつまらないことで頭がいっぱいになってしまったんだ。

だったら、ピアノを弾いて鼻歌を歌っているほうが、今日あったことを日記に書きつけているほうが、よっぽど自分らしいし、それと気づかずに時間が経過しているというのは、心がひとつのところに向かって夢中であるということで、「無為で、無駄な思慮・思考」が追い付かないその状態は、精神衛生上とても良い状態なんだと思うんだ。

 

捨てすぎてはじめて本当に必要なモノに気付くなんて、つくづくばかだなあと思う。

 

「丁寧な暮らし」なんて言うと、スムージー作ってハンモックに揺られてとか、ついインスタグラム界隈の流行りを追うような邪推をしてしまうけれど、自分の身の回りを「好きなモノ」で飾るっていうのは、とてもとても素敵なことなんだと改めて気付いた気がするよ。

 

だから、整える。

生活を整えるために、生活の場所を整える。モノを整える。単機能でも多機能でも、目に見えるところに「好きなモノ」を配置する。朝、目が覚めて、それが視界に入ってきただけでテンションが上がるような、「好きなモノ」を厳選して、自分の城の中に配置する。

 

こんなこと、子供の頃は自然にやっていたことなのに、どうして大人になったら、いちいち考えないとできなくなってしまったんだろう。

 

そうやって、気持ちの向きを変えてやると、それまで寄らなかった雑貨屋の棚なんかも、見て、歩くようになるんだよね。

女子高生が何かみつけるたびに「かわいい」と言う姿を見たことあるでしょ?

あれね、たぶん、めちゃくちゃ楽しいんだよ。

そうして、厳選した「好きなモノ」を自分の部屋にお迎えして、その「好きなモノ」と一緒に重ねていく時間は、昨日よりもちょっとだけ素敵さが増しているってわけなんだよ。

 

これはね、たぶん、女子高生でなくても、おばあさんでもおじいさんでも、同じなんだと思うんだな。

 

「好きなモノ」を探すことを「面倒」だと感じ始めた頃から、心の老いは始まっているのかもしれないなと思ったしだいです。

 

そういった視点で、こんまり先生の「ときめくモノを残す」という考え方は、とてつもなく合点がいくんだよね。